ソンサー島のプライベートリゾート(カンボジア) Song Saa resort in Song Saa Private Island

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
resort

2013年5月25日放送「世界ふしぎ発見!」(第1275回)は、「日本・カンボジア 絆物語」(ミステリーハンター:白石みき さん)でした。

 

 

カンボジアの首都プノンペンの南西200kmにある港町がシアヌークビル(Sihanoukville)です。

 


大きな地図で見る

 

このシアヌークビルの沖合に浮かぶのがカンボジアの隠れ家リゾートであるソンサー島です。

ソンサーとはカンボジアの言葉クメール語で「恋人たち」を意味し、二つの島(Bang Island と Aun Island)が寄り添うように仲良く並んでいます。

このソンサー島に、2012年3月にアイランドリゾート【ソンサーリゾート(Song Saa resort)】「ソン・サー・プライベート・アイランド(Song Saa Private Island)」が誕生したそうです。

シアヌークビルから船に乗り、島へ移動します。ソンサー島まで29km、およそ40分のクルーズです。

ソンサー島はオーストラリア人のハンター夫妻が買い取ったプライベートアイランドで、この島の美しさに魅了されたハンター夫妻が5つ星のリゾートホテルをオープンしました。

二つの島は桟橋で繋がり行き来できるようになっています。

建物には島にある廃材を活かし、インテリアは夫人がコーディネート。

ソンサーリゾートのポリシーは、環境を守り、地元の村人達との繋がりを大切にした上で、最高にラグジュアリーな環境を提供すること、なのだそうです。

セールス・マーケティング担当のジャレド・グリーンさん「ソンサーリゾートは周囲の環境を守るための配慮をしています。建物も景観を壊さないようカンボジアの漁村にあるものと同じ外観にしました。また、地元の人々をスタッフとして雇用することによって彼らの生活をサポートし、共存できる仕組みを作っています。」

一部屋ごとに独立した開放感のあるオーシャンビューのコテージになっていて、各部屋の中にはプライベートプールも付いているそうです。

取材した部屋は、食事代、飲み物代が含まれて1泊約15万円だそうです。

 


大きな地図で見る

 

アジアの新しい経済圏として、世界から注目が集まりつつあるカンボジア。

首都プノンペンでは、内戦の傷跡が癒えてきて、次々と新しい建物が建っています。

2013年はカンボジアと日本の国交樹立60年目となりです。

日本カンボジア友好60周年記念ロゴマーク(60th Anniversary JAPAN and CAMBODIA)は、両国の国旗が腕を組んで60を模しています。

カンボジア国旗に描かれているのはもちろん、世界遺産としても有名なアンコール・ワット遺跡です。

カンボジアと日本との関わりはアンコール・ワットにも残されていました。

 

≪今から400年も前の江戸時代からアンコール・ワットに日本人がやってきていたことを示す謎めいた絵図≫

公共財団法人 徳川ミュージアム所蔵の「祇園精舎之図(ぎおんしょうじゃのず)」と呼ばれる絵図は、現存する世界最古のアンコール・ワットの見取り図として知られ、江戸時代に日本人によって描かれたものなのだそうです。

そもそも祇園精舎とは、カンボジアではなくインドにある仏教の聖地であり釈迦が説法を行ったとされる寺院のことで、平家物語の冒頭にも「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」として登場しますが、この「祇園精舎之図」をアンコール・ワットを撮影した衛星写真と重ねてみると、ぴったりと一致するのだそうで、そのためこの「祇園精舎之図」は、アンコール・ワットの正確な測量図と言うことができるのだそうです。

また、この「祇園精舎之図」の裏面には、この絵図の作者について、長崎の通詞(現在でいう通訳)の嶋野兼了(しまのけんりょう)であると記されています。

上智大学特別招聘教授の石澤良昭先生「嶋野兼了は(絵図の記載によれば)”長崎大通詞”ということなので、当時長崎の通詞であった人たちをずっと調べてみました。親戚筋で手伝っていた可能性もあるので、親戚関係までも調べました。ところが、嶋野兼了という名前は一切見当たらなかったのです。なぜ実在しない『嶋野兼了』という名前を書いたのか?そこが未だにクエスチョンなんですね。」

 

≪フランスの影響≫

首都プノンペンは、フランス植民地時代に綿密な都市計画によって作られた街で、当時の建物が今も数多く残っていて、その街並みは東洋のプチパリとも呼ばれています。

カンボジアで唯一のSL(1939年フランス製)は、フランス統治時代の蒸気機関車が2012年に修復されたもので、古いですが実際に走ります。

フランス本国以外では、ここでしか見ることはできません。

現在はツアーなどでチャーター運行することができるそうです。

バナナやリンゴなど安全祈願のための供物が供えられています。

汽笛の合図とともにSLがゆっくりと動きだしました。

車窓には、プノンペン駅の構内が流れていきます。

プノンペン駅を出発して片道約20kmの道のりです。

線路の両側ぎりぎりに露店が迫る市街地では時速10kmで安全運転で進行します。

街中を抜けて農村地帯へ。

プノンペン駅から約10kmのサムロン駅を過ぎると車窓には田園地帯の景色が広がります。

サムロン駅から先は、北西のタイ方面の国境行きと南西の港町シアヌークビル行きの二手に分かれます。

 

プノンペンの街はセントラルマーケットを中心として広がっています。

セントラルマーケットの建物は2011年にフランスの援助でリフォームされて綺麗な淡いイエローです。

内部に入ると柱のないドーム状の高い天井で、吹き抜けのような開放的な空間が広がっています。

壁から天井にかけては細工の施された格子状の明かり取りの窓が並び、そこから差し込む光によって柔らかく明るい自然採光となっています。

場内の所々には風を送るための設備として、高さ5mほどの黒いスタンドが立てられ、上部に数個の首振り扇風機が備え付けられています。

ショーケースには宝石がずらりと並んでいます。

白石さんが手にしたアクアマリン?の特大ペンダントは約28000円、拳ほどの大きさでずっしりと重たそうです。

カンボジアはルビーやサファイアの産地なのです。

セントラルマーケットでは観光客向けの宝飾品や衣類のお店が並び、フランス統治時代から賑わってきました。

 

≪お札に描かれた”きずなばし”≫

500リエル紙幣※に描かれているのは「キズナ橋」です。(※500リエルは約10円)

メコン川本流に架かる「キズナ橋」は全長1360m、日本の無償資金協力によって2001年に完成したカンボジア唯一の橋なのだそうです。

橋のたもとの記念碑には、両国の国旗とその間に「きずなばし 日本国とカンボディア王国間の友好協力のしるしとして日本国より無償にて譲渡する 2001年」と刻まれています。

フランスの植民地だったカンボジアは、1953年にシハヌーク国王により独立宣言しました。

その年に日本と国交を結びました。

梅紫色の独立記念塔

その後1970年代にポル・ポト派が政権を取ると、一説では140万人とも言われる知識人が殺害され、さらにその後20年にもわたって続いた内戦によって国中が深く傷つきました。

ようやく経済が復興し始めたのはここ数年のことです。

近年では日本から多くの企業の進出が予定され、プノンペン市内でも日本語の看板を目にするようになりました。

カンボジア女性が経営する日本式の美容サロンのお店「Bi SALON(美・サロン)」(Hair/Nail/MakeUp/SkinCare & Waxing tel:023-6324-524 HP:097-7981-122)もあります。

美容サロンオーナーのカム・ケムラさん「日本(大阪)に1年間くらい留学に行きまして、関西弁も一応分かりますよ。」

14歳から日本語を学んだケムラさんは、高校時代に1年間大阪に留学し、その後、語学を活かした仕事に就きました。

カンボジアに進出する日本企業のプロジェクトに参加して研修を受けるため東京に着いたのは2011年3月7日でした。

その4日後、東日本大震災が発生。

カム・ケムラさん「午後、確かランチの時間が終わって仕事に戻った時に揺れ出して、それが3月11日の大震災でした。もしその時、日本で死んでいたら自分の口座に残っている僅かなお金も使えないわけだし、それだったら社会に貢献できることに使おうと思ってこのサロンを始めたんです。」

ケムラさんのお店で働いているスタッフは全員が地方出身者なのだそうで、小学校も出ていない彼女たちが手に職を付け、都会で生きていけるようにするために始めたお店だったのだそうです。

ケムラさんは今、Facebookで知り合った日本の友人と共同で、美容師の学校を開こうとしているといい、女性が技術を身に付け自立するために毎日奮闘中の様子です。

 

≪カンボジアと日本の意外な関係≫

カンボジア現国王のシハモニ陛下は1953年生まれで、ちょうどカンボジアと日本との国交が結ばれた年でした。

しかも前国王シハヌーク陛下が日本を訪問して帰国したちょうどその日にお生まれになったのだそうです。

大変喜んだシハヌーク陛下は外国人でもよく知っている日本語を愛称として付けたそうです。

 

【クイズ1】
シハモニ国王の幼い時の日本語の愛称とは?
→トウキョウ

トウキョウから帰った日に生まれたので、縁起のいい場所だから、といって愛称として呼んだのだそうです。

王宮前広場を管理しているお役人さん「『東京』と呼ばれていたと聞いたことがあります」

元カンボジア大使の今川幸雄さんの著書「新版 現代カンボジア風土記」(連合出版)には、「幼名を東京と名付ける」と、当時の逸話が紹介されているそうです。

 

 

≪アンコール・ワットと日本の意外な繋がり≫

「キズナ橋」が描かれているのは実は裏面で、500リエル紙幣を裏返すと、表面には世界遺産アンコール・ワットが描かれています。

カンボジア中部の街シェムリアップ郊外に広がるのがアンコール遺跡群です。

9世紀〜13世紀始め頃にかけて、周辺には数多くのヒンドゥー教や仏教の寺院、都市が造られましたが、その後、15世紀に隣国からの攻撃によって首都が移ったことから廃墟になりました。

アンコール・ワットを建造した王様のレリーフ「スーリヤヴァルマン2世の行軍」

アンコール・ワットガイドのトムさん「こちらに描かれているのがアンコール・ワットを建造した王、スーリヤヴァルマン2世です。どうしてこの彫刻が王様だと分かるかというと、帽子です。尖った帽子を被っています。そして日傘の数の多さでもこの人が王様だと分かります。身分が高ければ高いほど日傘が多いのです。」

王様のレリーフの先には、立派なゾウに乗っている人物が描かれていますが、

トムさん「この人は王様ではありません。王様よりも日傘が多いのですが、影武者です。こちらの人物が被っている帽子は、先が尖っていません。」

十字回廊の壁には、日本人が書いた落書きである墨書(ぼくしょ)が残っています。

ポル・ポトの時代にペンキで黒く塗りつぶされていますが、漢字のような文字がわずかに読み取れます。

トムさん「日本の江戸時代頃、西暦1632年、祇園精舎と勘違いしてアンコール・ワットに来た日本人、森本右近太夫が書いたものです。」

現在では判別が難しいですが、墨で書かれた文字の一部には、「生國日本」、「森本右近」(もりもとうこん)とあります。

この森本右近太夫は、北経堂にも墨書を残していました。

こちらも判読が難しいため奈良文化財研究所が赤外線写真を撮影して解析したところ、墨書には「父の菩提を弔い 母の後生を願って ここに四体の仏像を奉納した」と書かれていました。

この他にも「日本境泉」、「日本城州住人」(城州は近畿)など、アンコール・ワットには同時代に日本人が残したと考えられる墨書が、14ヵ所もあるといいます。

なぜ江戸時代初期、日本人がアンコール・ワットへやって来たのでしょうか?

水戸にある徳川ミュージアム所蔵の絵図の巻物には「祇園精舎之図」が描かれていました。

徳川ミュージアム課長の脇 信哉さん「徳川家に伝わる絵図です。『祇園精舎之図』として伝わっていますが、今は『アンコール・ワットの図』となっています。」

実際はアンコールワットを正確に測量して描かれた絵図で、衛星写真と重ねてもほとんど一致するそうです。

400年前の日本人は、なぜカンボジアのアンコール・ワットのことをインドの祇園精舎だと思っていたのでしょうか?

脇さん「当時(祇園精舎を目指して海外へ)行かれた方も、やはり勘違いをしたのではないか。密林の中にこれくらい立派な建築物が出てくると祇園精舎だと思ったのかもしれないですね。」

江戸時代の日本では、インドを天竺(てんじく)と呼び、カンボジアを南天竺(みなみてんじく)と呼んでいました。

朱印船と呼ばれる日本の貿易船で渡航した人々は、密林に眠るアンコールワットの姿を見て、インドの仏教の聖地「祇園精舎」だと思い込んだのではないか、といわれています。

「祇園精舎之図」は三代将軍の徳川家光に派遣された長崎の通訳、嶋野兼了であると書かれています。

ところが、上智大学特別招聘教授の石澤良昭先生の研究によると、嶋野兼了という人物は実在しないそうです。

石澤先生によると絵図を残した本当の人物は、森本右近太夫一房(もりもとうこんだゆうかずふさ)である可能性が高いといいます。

石澤先生「とにかく来た証拠に祇園精舎を日本へ持ち帰って、実際に見てもらおうという意図があったと思います。」

森本右近太夫は、なぜ実在しない嶋野兼了が絵図を描いたことにしたのでしょうか?

石澤先生「(鎖国時代になった後)海外へ行ったという履歴が暴露されると、当然、お家断絶にまで繋がります。裏面には「模写絵図」というふうに何回か写したと書かれています。ある意味ではアリバイ作りでしょう。(原作者は)誰か分からないけど写したと、模写であって決して原本ではないんだと、しかも嶋野兼了(実在しない人物)が書き写したんだ、ということで逃げられたのではないでしょうか。」

今では失われた貴重な情報として絵図には南北の堀に架けられた橋が描かれています。

石澤先生によると、堀の内側に描かれていた門(アンコール・ワット北門)は実在するため、最初は木造の橋が架けられていたが朽ちてしまった可能性があるそうで、今後、堀の水を抜いて地中を調べれてみれば、打ち込まれた橋桁の一部が出土する可能性が高いそうです。

 

≪アンコール・ワットを訪れた侍の謎≫

アンコール遺跡研究の第一人者で寺院に埋められた274体の仏像を発見した石澤先生がスタジオに。

内藤剛志さん「なぜ武士である森本右近太夫がアンコール・ワットに行ったのか?」

石澤先生「森本右近太夫が生きた時代は戦国の世、人の生き死にに対してかなりダメージを心の中に持っていた。松浦藩(平戸)から船に乗って行った。」

米村でんじろう先生「どのようにして正確な図面を描いたのか?」

石澤先生「どうも森本家は築城専門職のような測量を身に付けていたようで、歩幅で測ったのではないかと思います。」

フットボールアワー後藤輝基さん「結構多くの人が行っていたのでしょうか?」

石澤先生「団体旅行もあったようです。10人くらいのメンバーが残した名前が消えかかっているのですが残っています。」

福田彩乃さん「森本右近太夫の帰国後の消息はどうなったんですか?」

石澤先生「森本右近太夫が日本に帰国したという事実が分かったのは20年前のことで、以前はキリシタンだったとか帰国しなかったという説がありました。しかし京都の森本家の菩提寺である乗願時で彼の墓碑が見つかり、墓碑を読むと日本に帰国したという事実が分かりました。但し、森本家の位牌には『森本佐太夫』と彫られています。その意図するところははっきりしませんが、日本の当時の政治状況を考えると、江戸幕府は、森本右近太夫がアンコール・ワットを詣でた1632年の翌1633年に第一次鎖国令で日本人の渡航を制限、1637年に島原の乱、1639年に第五次鎖国令(鎖国の完成)、並行して踏み絵の実施という対外政策を進めていました。帰国後の右近太夫は海外渡航に関する経験を公にせず、なるべく密やかに蟄居(ちっきょ)のようにして身を隠して暮らしていたのではないかと思います。」

 

アンコール・ワットの建物のレリーフには、いろいろな国の人が彫られています。

人種の違いは髪型や服装で見分けられますが、クメールの人々(カンボジア人)は体のある部分の特徴から見分けることができるといいます。

日本でもその特徴は、徳が高いことを示すと考えられています。

 

【クイズ2】
壁画に描かれたクメール人の体の特徴は?
→耳が長い(福耳)

アンコール・ワットガイドのトムさん「クメール人(カンボジア人)は、他に描かれた中国人などと比べると、耳が長く描かれています。」

福耳は現在ではお金が貯まる相といわれていますが、もともとは仏様に備わる特徴の一つです。

石澤先生「長寿と金運の意味があります」

 

 

≪アンコール・ワットを作った民族の誇りを取り戻すために奮闘する日本人女性≫

1970年代から1990年代にかけて20年間にもわたって続いたカンボジア内戦。

石澤先生は遺跡保存のための人材育成も行っています。

内戦で傷ついた国を復興するために大勢の日本人が働いています。

 

プノンペンにあるニョニュム編集部では、最新のカンボジア情報を発信する情報誌を作っています。

編集室長の山崎幸恵さんの元へ。

山崎さんは生活者の視点で書かれた日本語と英語の情報誌「NyoNyum(ニョニュム)」を創刊しました。

カンボジアに来る日本人に役立つ身近で最新の情報を掲載しています。

ニョニュムはクメール語で笑顔という意味だそうです。

カンボジアとの出会いは1994年、青年海外協力隊のメンバーとして訪れた時でした。

山崎さん「プノンペンの空港に降り立った時、埃だらけで何もない、掘っ立て小屋が一つあるだけのような空港でした。いろんな町の人が飛行機を見に来ていた。降り立って歩いて行って一番最初に目にしたのは小さな女の子で、その子がニコッと笑ったんですよ。そのときの笑顔がすごく印象的で、いい国だなと。その笑顔を見て思いました。」

その後、体を壊して日本に帰国したことで不完全燃焼だった山崎さんは、アルバイトで貯めた資金を持ち、カンボジアの総理大臣に直訴状を書いて当時留学制度が無かったプノンペン大学に入学したのだそうです。

卒業後、通訳として働く傍ら発行したのが「NyoNyum」なのでした。

山崎さん「カンボジアで初めて見たあの時の子ども笑顔の素晴らしさを伝えていきたいというのが創刊当初の思いです。笑顔の中には悲しみもあったり苦しみもあったり毎日の生活があってその中に笑顔が生まれるわけで、そういった素朴なカンボジアをこれからも伝えていきたい。」

山崎さんが情報誌と並んで取り組んでいるのが、カンボジア産の陶磁器ブランドを立ち上げることなのだそうです。

工房があるのはコンポンチュナンと呼ばれる地域です。

コンポンは港、チュナンは土鍋を意味するそうで、古くから土鍋の産地として知られた場所なのだそうです。

舗装された幹線道路を外れて未舗装の田舎道へと入ります。

オンドン・ルッセイ村の工房を訪ねます。

水道はありません。

電気も2012年に村の一部に来たそうですが、料金が高いので村人は使っていないといいます。

一軒の農家の庭では昔ながらの土鍋を作っていました。

両足と片手で支えた土鍋を平べったい石で叩いています。

山崎さん「これは仕上げの部分です。始めは底が無い状態で横の部分を叩きながら伸ばしていって、最後に底の部分を繋げて作ります。」

土鍋作りにろくろは使いません。

台の上に置いた粘土を中心に人の方がその周りをぐるぐる回りながら形を作っていきます。

あっという間に綺麗な形に。

土鍋1個で550リエル(約11円)になるそうです。

村では伝統的に土鍋作りは女性の仕事です。

子どもの頃から作り方を母親に習って、土鍋が作れるようになって初めて一人前の女性として認めてもらえるのだそうです。

でも丸一日作っても300円程度の収入にしかなりません。

そこで、山崎さんが立ち上げたのがこの工房です。

山崎さん「この間の展示会で値札を立てるためのスタンド『ゾウの形をした値札立て』が飛ぶように売れたので、今度はこれを売り物にしようということで、ゾウさんをぞうさん中なんです。」

足で蹴るろくろ「蹴ろくろ(けろくろ)」は人力です。

山崎さん「日本では電動のろくろが主流ですが、まだ電気の無いところですので・・・」

6人の女性たちが陶工として働いています。

技術を身に付けて美しい陶磁器を作れば、素朴な土鍋の何百倍もの値段になり、伝統を活かしながら収入を増やすことができるようになります。

山崎さんはブランドを知ってもらうためのアンテナショップをプノンペンに開きました。

美しいコンポンチュナン焼きの陶器が並んでいます。

電気もガスも水道も無いオンドン・ルッセイ村ですが、生計を立てられれば、母親が出稼ぎに行って子どもが寂しい思いをしなくて済みます。

山崎さん「クラスメイトたちが『アンコール・ワットを作ったのが自分たちの祖先だとは思えない。あれはどこか違う民族が作ったものだと思えてしまうほど、自分たちには自信がない。』と言うのを聞いて、でもそうじゃない、自分たちはあんなに素晴らしいものを作れた民族なんだ、という自信を持って欲しいと思ったので、この陶器というものをきっかけに、『自分たちの国にはこういった文化があるんだ』と誇れるような、そういったものを作りたいと思ったんです。」

かつてアンコール王朝にはクメール焼きという、今は失われた美しい陶磁器がありました。

山崎さんが開いた工房から陶芸家が巣立ち、いつかクメール焼きを復興する日が来るかもしれません。

 

黒柳徹子さんはユニセフ親善大使として2回(1988年、2008年)孤児院などを訪問されました。

黒柳さん「初めに行った時はまだポル・ポトの残虐なことがいっぱい残っていて、プノンペンでも歯医者さんが1人しかいらっしゃらないとか。文化庁長官にお会いした時に『私はたった一人生き残った俳優なんです。でも一人では芝居はできないので、文化庁長官をして伝統的な舞踊などを若者に教えています。誰とも芝居の話ができないのは寂しいものです。』と言っていました。何もかもが失われてしまった時代だったんだなと思いました。」

米村でんじろう先生は2009年にロケで訪問。

米村先生「まだ地雷が埋まっている、地雷原のような村へ理科の授業を行いにいくプロジェクトでした。黒板もろくに無いですし、もちろん地元の授業では実験なんか無いので、そこでできるような実験をいろいろ紹介しました。子どもたちにとっては初めて目にすることなので、とても新鮮に目が輝いて見えた。すごくいい笑顔が印象的でした。」

石澤先生&草野さん「自分の国に誇りを持つ、アンコール・ワットでも結構ですし、手に職を付けて頑張るでも良い、一つ一つ自信を抱いていかれるのが大きいことだろうと思います。」

 

2012年、日本人なら誰でもよく知っている銅像のレプリカがプノンペンの大手書店の前に建てられました。

その像にまつわるお話がクメール語に翻訳されて出版されたことを記念したものだそうです。

そのお話は、これからカンボジアが発展するための大事な教訓だと考えられているそうです。

 

【クイズ3】
書店の前に作られた日本人がよく知る像とは?
→ハチ公

モニュメントブックス社長のテアリー・テンさん「これはみなさんがよく知っているハチ公(Loyal Dog Hachiko)です。中には本もありますよ。」

「Hachiko The True Story of a Loyal Dog(written by Pamela S.Turner illustrated By Yan Nascimbene Supported by The Tokyo West Rotary Club)」

Loyalは「忠実な」

このハチ公の像を建てたのは東京在住のアメリカ人ジャーナリストのバーナード・クリッシャー氏で「与えられた義務を犠牲を払っても果たす精神こそ日本復興の秘訣でハチ公はその精神を表している」と考え、カンボジアのために物語を翻訳したのだそうです。

1 2

関連記事

コメント

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    パナソニックから 5月に発売された、時には“サーキュレーター” 時には “扇風機” として活躍する 球体のデザインが特徴的な新商品の名前はなんでしょう? ひらがな5文字でお答えください。
    正解は そうふうき

    創風機 Q
    Q それは、これまでにない まったく新しい風を創り出す球体。どこで、どのように使うか。すべては、あなた次第です。時にはサーキュレーターとして。時には扇風機として。あなたの暮らしに合わせた風をお届けします。
    パナソニック創風機 Q あなたの生活に、新しい風を吹かせます。

    製品仕様
    品番 F-BL25Z
    モーター DCモーター
    風量切替 5段階
    切タイマー 1時間/3時間
    消費電力 18.5w(最小2.5w)
    外形寸法:
    幅×奥行×高さ(本体サイズ)
    250mm×250mm×277mm:スタンド含む(直径250mm)
    本体質量 2.1kg
    電源コード 1.8m(ACアダプター)
    ・吸気口のプレフィルターのほこりは定期的にお手入れしてください。
    ・付属品の一部に海外製品を使用しています。
    日本製

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    世界最大発行部数を誇る旅行ガイド LONELY PLANET が 2015年8月に ULTIMATE TRAVELISTという本を出版しました。
    この本は、THE LONELY PLANET COMMUNITY という 各国の旅行ガイドを書いた人などが集まるコミュニティの人に トップ20の観光地を選んでもらってランキング化したものです。
    そして、本には、ランキング1位から500位まで掲載されています。
    ここで、気になるランキングベスト10は一体どこかというと

    1位 アンコールワット
    2位 グレートバリアリーフ
    3位 マチュピチュ
    4位 万里の長城
    5位 タージマハル
    6位 グランドキャニオン
    7位 コロッセオ
    8位 イグアスの滝
    9位 アルハンブラ
    10位 アヤソフィア

    となっています。

    誰もが知る有名スポットで、スケールが大きい所だらけです。

    ちなみに、日本国内で上位にランクインしたのは、

    49位 広島原爆ドーム
    75位 京都嵐山
    132位 奈良の大仏
    141位 築地市場
    147位 京都祇園

    となっています。

    やはり日本らしい場所が人気です。

    というわけで、旅行先を選ぶ時には ぜひ参考にしてみることをお勧めします。

    ちなみに、LONELY PLANET は 各国の旅行ガイドのほかに、テーマ別の別冊ガイドブックもたくさん出版しています。
    例えば、冒険旅行を集めた「GREAT ADVENTURES」とか、リゾートを集めた「GREAT ESCAPES」とか、家族旅行を集めた「TRAVEL WITH CHILDREN」などです。

    こういった本は日本の旅行記事や旅行本の元ネタだったりしますので、チェックしてみてると面白いと思います。
    デザインもいい感じなので、家に置いておくインテリア小物としてもオススメです。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

*

人気記事ランキング-TOP50

Twitter

  • SEOブログパーツ
ページ上部へ戻る