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アダムスブリッジ Adam’s Bridge インドに繋がる伝説の海の道(スリランカ)
2013年7月13日放送「世界ふしぎ発見!」(第1281回)は、75分スペシャル!「今解かれるスリランカの封印 湖で発見!謎の生物と日本交流秘話」(ミステリーハンター:坂本三佳さん)でした。
スリランカで撮影された1枚の白黒写真、そのモノクロームの世界に捉えられていたのは、水面からこぶのような背中と細長い首だけを浮かべるように現した首長竜のような姿。ネス湖(英国)のネッシーのような謎の生物の黒い影です。果たしてその生物の正体は何なのでしょうか?
インド洋に浮かぶスリランカ(Sri Lanka)は北海道を一回り小さくした程の島国です。
謎の生物が写っているこの写真は東海岸に近い湖で撮影されました。
2009年まで続いたスリランカ内戦(1983年~2009年)によって、およそ30年もの間、その湖に近づくことができませんでした。
内戦が終結して4年、人々が平和を取り戻した今、これまで封印されていた謎が解き明かされようとしています。
今まで立ち入ることが許されなかった東部と北部エリアの美しさに満ちた風光明媚な絶景スポットをカメラは余すことなく捉え、知られざるスリランカの名所や見たこともない驚きの光景がこの夜、日本のテレビで初めて公開されました。
スリランカ空軍の特別な協力によって北部の海を空撮し、そこでインドへと延びる幻の道を目の当たりにしました。インドとスリランカは繋がっていたのでしょうか?
知られざる奇祭で道を走りながら宙を舞う男たち。見ているだけで痛くなる光景です。
マヒンダ・ラジャパクサ大統領と面会。「日本は遙か昔から私たちの友人です。」
戦後、あるスリランカ人の演説によって、日本の運命が大きく変わったのです。日本とスリランカの間に何があったのでしょうか?両国の間の知られざる関係が明らかにされました。
スタジオにゲスト登場!
にしゃんた さんは、スリランカ出身の社会人落語家、経済学博士、羽衣国際大学准教授、タレントとして日本で活躍中です。
スリランカとはどんな国なのか?を落語風に紹介してくれました。
にしゃんたさん「スリランカのことを落語で紹介して欲しいと無理なお願いを受けてはるばるやって参りました。スリランカは歴史のある国ですので紹介するにはそこそこ時間がかかります。どのくらい時間がもらえるか尋ねたところ、返事は1分!もうすでに30秒が過ぎております。スリランカはインドの南、インド洋に浮かぶ島国です。国名の『スリ(Sri)』とは光り輝く、『ランカ(Lanka)』とは島を意味し、スリランカ(Sri Lanka)とは光り輝く島という意味になります。大きさは北海道とほぼ同じ、東京ドームで言いますと、およそ・・・みなさんで計算してください。スリランカの首都がコロンボ(Colombo)だと習われた人、今手を挙げている人は一世代前の人です。1985年に遷都致しまして、現在の首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(Sri Jayewardenepura Kotte)です。スリランカを知ってもらう上で欠かせないのが仏教。国民の7割が仏教徒で普段の生活も仏教と深く関わっています。お祭りは仏教の教義に従って満月の日に行われます。夜お祭りに行くと困るのが蚊が多いことです。スリランカで最も売れている蚊取り線香の名前がなんと『NINJA(ニンジャ)』、スリランカ人は日本製品は素晴らしいというイメージを持っていて、忍者というネーミングにしたんです。でも日本の蚊取り線香と違うところは蚊を殺さないところです。殺さずにただ逃がすだけなんです。それも『殺生してはいけない』という仏教の教えから来たものなんです。そんな慈しみ深い光り輝く島、それがスリランカなんです。『スリランカとはどんな国?』の一席でした。」
番組では今回、スリランカの中でも内戦のために立ち入ることができなかった東部(ベンガル湾のバッティカロア(Batticaloa(バティカロア))、トリンコマリー(Trincomalee))と北部(ポーク海峡のジャフナ(Jaffna)、マンナール湾のマンナール(Mannar))での取材が行われました。東部と北部は市販の観光ガイドブックを開いてみてもほとんど情報が載っていないエリアです。(スリランカ全図 地図制作:品田興世揮)
≪謎の生物の正体に迫る≫
日本から直行便でおよそ8時間。
西海岸のコロンボに到着後、およそ300km離れた東海岸に向けて、クルマで島の中央部を横断します。
まずは島の東部海岸へ。
坂本さん「こんな綺麗な海をおよそ30年間もだれも見ることができなかったなんて・・・」
東海岸の風景はまるで伝説のように語り継がれてきました。
1983年、シンハラ人を中心とするスリランカ政府に対して一部のタミル人が独立を要求して内戦が勃発し、2009年まで東部海岸沿いから北部全域にかけて立ち入りが制限され、見ることができなかったのです。(タミル・イーラム解放の虎(LTTE)【写真:AP/アフロ】)
世界中の海に潜ったフランスのフリーダイバー ジャック・マイヨール(Jacques Mayol、1927-2001年)も、内戦で近づくことができなかったこの海に憧れ続けていたそうです。
この美しい東海岸をスリランカの一大リゾートにするため、現在は急ピッチで開発が進められているところで、スリランカ政府がホテルを誘致し、一帯は建築ラッシュの真っ只中でした。世界の注目が集まる隠れ家リゾートです。
すでに完成したリゾートホテルの一つである、ジャングルビーチリゾート(Jungle Beach Resort)はジャングルの中にあるコテージをイメージした建物が特徴的で、いかにも南国らしい雰囲気満点のホテルです。
豊かな水をテーマにしているホテルが、ウガベイリゾート(Uga Bay Resort)です。大きなプールから目の前に広がる海を独り占めすることができます。
東海岸から内陸部へ入ったところに、謎の生物が撮影された湖があります。
深い森が広がるガルオヤ国立公園(ガル・オヤ国立公園(Gal Oya National Park))の総面積25900ヘクタールの内の約9割を湖が占めています。
琵琶湖に次いで日本で2番目の大きさを誇る霞ヶ浦とほぼ同じ大きさの湖です。
湖の名前はセナナヤカ・サミュードラ湖(Senanayaka Samudra)です。
強力な助っ人、約40年前に写真を撮影した本人であるエドモンド・ウィルソン博士と合流しました。
エドモンド・ウィルソン博士「その写真を撮影したのは1972年です。私はこの国立公園の初代園長なんです。湖をパトロールしている時に、お昼ご飯を食べようと思ったら目の前に現れたんです。偶然撮ったんです。びっくりしましたよ。」
もちろん、エドモンド博士はその生物の正体を知っているのですが、今まで誰もビデオカメラでの撮影には成功していないそうです。
捜索開始、まずはこの写真が撮影された現場へと向かいます。
二つの山の中間ぐらいのポイントに到着です。
目撃現場を中心に場所を変えながら水面に動くものがないかを探します。
湖に小舟を浮かべていた漁師さんに聞き込みです。「あっちに何かいた」と言うので、行って付近を捜索していると、水面になにやら動くものがいました。よく見てみるとそこにはワニが泳いでいました。しかし、あの写真に写っていた生物はワニではありません。
日暮れまで捜索しましたが、1日目には出会うことができませんでした。
翌日も早朝から捜索開始です。レンジャーも総出で見張り当番。2時間に1回、湖に出てパトロールも行います。
パトロールの途中、湖の中で面白いものを発見しました。枯れ木の枝に鵜が巣を作っていました。カワウの仲間で枯れ木を上手く利用して3つも営巣しています。カワウはこの湖に棲む魚を餌にして暮らしているそうです。
湖に浮かぶ島にはたくさんの鳥たちがコロニーを作っていて、野鳥の楽園になっています。
捜索開始から3日目。ボートで湖上をパトロールをしていたところ、遠くの湖面を何かが泳いでいる姿を発見しました。
時々クジラのように水面から水飛沫を上げています。
長い鼻をまるでシュノーケルのように水面から出して野生のゾウが泳いでいます。
40年前、写真で撮影されたネッシーのように見えた生物は象だったのです。
一体どのようにゾウは泳いでいるのか水中にカメラを入れてみましたが、水が濁っていて確認することができませんでした。参考にインドのアンダマン海で撮影された「海中を泳ぐゾウ」の写真には犬掻きのように4本の足を使って泳いでいる姿が写っていました。
野生のゾウが湖を泳ぐ姿を撮影した映像は世界でも希です。少なくともこのセナナヤカ・サミュードラ湖で泳ぐゾウが撮影されたのは世界初です。
ゾウは陸地から500mほど離れた島に向かって泳いでいます。無事に島まで泳ぎ着いたゾウは振り返ることなく森の中へ消えていきました。
草野仁さん「スリランカではあの湖でゾウが泳ぐというのは知られているんでしょうか?」
にしゃんたさん「行ったことないんです。内戦があった場所なので、ほとんどのスリランカ人が行ってないんです。でも、ゾウさんは日常の暮らしの中によくいる動物です。僕が学校へ行く時はゾウさんを数えながら通っていたんです。奇数のゾウさんに会うと良いことがあります。偶数のゾウさんに会うと悪いことがあります。だから先生に怒られたりすると、ゾウさんの数のせいにしてました。」
ゾウはなぜわざわざ泳いで島に渡っているのでしょうか?
特別な許可を得て島に上陸してゾウの痕跡を探しました。
エドモンド博士「これを見てください。この草がゾウのご馳走です。」
坂本さん「笹のような草ですね」
この島には他の動物がいないため新芽で柔らかい好物の草がいくらでも生えています。ゾウはこの草を食べるためにわざわざ湖を泳いでこの島へ渡っていたのです。
エドモンド博士「ゾウたちは長い鼻を器用に使い、草に鼻を巻き付け、根ごと抜き取って食べているのです。また、草を抜いた時に根に付いた土を足で払ってから食べるんです。」
確かに、掲げた自分の前足の部分に鼻で引き抜いた草を何回か叩き付けて土を払うような仕草をしてから食べています。
しかし、なぜゾウたちはこの島に好物の草が生えていることを知っているのでしょうか?
エドモンド博士「実は、ここはかつて川だったんです。このセナナヤカ・サミュードラ湖はダムによってできた人造湖なのです。水が貯まる前は、ゾウたちはここ(川)を歩いて渡っていたのです。彼らはいつも群れで餌を探して歩いていました。」
およそ50年前、乾期の水不足を解消するためダムが建設されました(セナナヤカ・サミュードラ・ダム(Senanayaka Samudra Dam))。
湖でカワウが巣を作っていた枯れ木は、かつてそこが陸地だったことを物語っています。陸がダム湖になったため、ゾウの餌場は泳がなくては行けない島になってしまったのです。
エドモンド博士「ゾウは非常に賢く、好奇心が旺盛です。食料が不足する乾期でも、島には美味しい草が生えていることを覚えていて、泳いで島に行けばエサがあるよということを親から子へと代々伝えているのではないかと考えられています。彼らは一度覚えたことは生涯忘れません。」
先祖代々受け継がれてきた餌場への陸地が閉ざされても、ゾウたちは泳ぐことによって大好物の餌がある島へ通っていたのでした。
ロケ最終日、再び幸運に恵まれました。
今まさに、泳いで島に渡ろうとするゾウを発見しました。
とてもゆっくりとしたスピードで頭部を湖面に出たり沈んだりさせながら泳ぐ姿は半分溺れているのではないかと思えるほど必死の様子が伝わってきます。
時折、鼻で水飛沫を上げながら一生懸命泳いでいるゾウの姿は、映画「マリリンに逢いたい」で慶良間諸島の海を泳いで渡るシロの姿をふいに思い出させました。(そんな蒼い海とサンゴ礁や多様な生物で知られる沖縄県の慶良間諸島とその周辺海域が2014/3/5、全国で31番目の国立公園に指定され、同日付の官報で告示されました。分割・再編や拡張によるものでない国立公園の新規指定は1987年の釧路湿原(北海道)以来、27年ぶりとなります。指定日は沖縄で親しまれている3/5の「サンゴの日」に合わせたという。8日には那覇市で、石原伸晃環境相らが出席し、記念式典が開かれます。慶良間諸島国立公園の指定区域は、那覇市の西にある渡嘉敷島など大小30余りの島々と、沖合7kmまでの海域で、陸域は3520ヘクタール、海域は9万475ヘクタールに及ぶという。)
坂本さん「生きるために必死で泳いでいると思うと心が熱くなりました。」
やっとのことで陸に上がると、辺りに綺麗な白いチョウがいっぱい飛んでゾウをお出迎えです。
今までずっと誰にも知られることなく湖を泳ぎ続けてきたゾウたちの姿が、野生の力強さを目の当たりにさせてくれました。
最近スリランカでゾウのフンを住処にするある生き物の新種が発見されたそうです。
フンの中は意外と涼しくて、外敵から身を守るのにも最適で、おまけに近寄ってくる虫を餌にできる格好の住まいなのだとか。
【Question 1】
ゾウの糞を住処にする生き物とは?
→カエル
知花くららさん「3年前にスリランカに行った時、ホテルのお手洗いでお水を流した時に蛙が2、3匹(ウォータースライダーみたいに)一緒に流れてくるんですよ。それぐらいいっぱいカエルがいたんです。タンクの中を開けて見るとカエルが5、6匹棲んでいるくらいだった。」
正解の生き物が見つかったブンダラ国立公園(バンダラ国立公園(Bundala National Park))へ。
いざ捜索開始!
研究者がおよそ300個のゾウのフンの中からたった6匹だけ見つけたというほど珍しく、見つかりにくいカエルなのだそうで、同行してくれたレンジャーのガヤン・プラサンガーさんもまだ見たことがないそうです。
マスクに軍手に火バサミを持った坂本さんが、辺りに転がっているゾウのフンを片っ端からメリメリとほじくって回ります。
坂本さん「お食事中の方、ごめんなさい!」
ひたすらゾウのフンをほじくって分解しながら探し続けること5時間・・・、もうだめかと諦めかけていたその時、坂本さんの喜びの歓声が上がりました。
遂に親指の先ほどの茶褐色の小さな蛙を発見しました。
4年前に発見されたアマガエルの仲間で日本名はまだないそうです。穴を掘りやすいように口の先が尖っているのが特徴です。
実はゾウのフンはカエル以外にも、小さな生き物や植物などを育む自然界では欠かせない場所になっているといいます。
スリランカ北部のある場所の衛星写真
にしゃんたさん「ここはアダムスブリッジ(Adam’s Bridge)といって、インドとスリランカが砂の浅瀬で繋がっているんです。私、京都に住んでいますけれど、京都でいうと天橋立(あまのはしだて)そっくりです。行ったことはないです。アダムス・ブリッジというのは伝説の話だと思っていたんです。ほんまにこうなっている(橋のようになっている)とは知りませんでした。」
マンナル湾(マンナール湾国立公園(Gulf of Mannar Marine National Park))
≪インドへ続く「伝説の海の道」アダムス・ブリッジとはどんな場所なのか?≫
国道A9号線をクルマで北へ。数年前まで特に戦闘が激しかったスリランカ北部にはインドへと延びる幻の道があるといいます。
そもそも北部エリアはガイドブックにほとんど何も書かれていない、まさに未知なる場所です。
かつて立ち入り禁止区域の起点となっていたオマンタイ検問所(Omanthai Exit Entry Point)に差し掛かりました。今でもこの検問所では、南から北部へ向かう人、北部から南へ向かう人の両方がチェックを受けます。
「Passports Vehicles Park」
「Why we are checking you」
カウンターでパスポートをチェックするのは陸軍の兵士です。
内戦終結から4年経った今でも検問所がある理由は、仏教遺跡から貴重な仏像などを盗んでいく人がいるらしく、かつては武器の所持などもチェックしていましたが、現在は遺跡からの盗掘品や盗難品の持ち出しをチェックするために検問所が設けられているのだそうです。
オマンタイ検問所から北へとクルマを走らせている途中に、信じられない光景に遭遇しました。
トラックの屋根の上に長い木を何本も束ねて作ったクレーンのような柱が横倒しに載せられ固定されていて、その先端部分に2人の人間が空飛ぶスーパーマンのような体勢でうつぶせに並んで宙吊りにされています。上から操り人形の糸のように何本もロープが下がり、その先端には鋭い鉤爪(フック)が取り付けられています。クレーンの部分がしなって宙吊りにされた人がヨーヨーのようにびよーん、びよーんと上下に揺れてGが掛かります。トラックの荷台には家族?
これはヒンドゥー教の儀式で、願いが叶ったお礼に苦行を行っているところなのだそうで、背中や足など体中の皮膚に巨大な釣り針のような金属針を突き刺さして貫通し、その針にロープが結び付けられて上から吊されているのです。フックが食い込んで貫通した部分の皮膚は、上から引っ張られて見るからにぱつんぱつん。張り裂けそうになっています。
願を掛けた寺院まで何kmもそんな全身針まみれ、危険な宙吊り状態でゆっくりと行進していくのだそうです。見ているだけで怖いというか恐ろしいというか・・・想像しただけで自分の体が痛くなってきます。願いが叶ったということは、すなわち「もう死んでもいい」ということなのかもしれません。私たちの知らない世界がまだまだあるようです。
というか、一歩間違えるとこれ立派な拷問です。でも他人から無理やり強制させられたなら拷問ですが、自ら進んで行うのであればそれはあくまでも苦行なんですよね。同じ苦痛でも180度見えている世界は全然違う。神聖さというのはそういうぎりぎりの境界線上に宿るものなのかもしれないなと衝撃的な印象を持ちました。
国道A9号線をさらにクルマで北進し、北部の中心都市であるジャフナに到着しました。
1640年からおよそ150年間続いたオランダ統治時代の面影を残す美しい港町ですが、建物の外壁の至る所には銃弾の跡が残っていて、激しい銃撃戦があったことを静かに物語っています。
オランダ統治時代(1658-1796年)に使用されたジャフナ要塞(Jaffna Fort)の跡が残っています。
ここは最近、内部を見学できるようになったばかりだそうで、現在は戦闘で破壊された要塞跡の修復作業中です。
このジャフナ要塞は空から見ると函館の五稜郭のような星形になっています。
修復が終われば、世界遺産クラスの史跡になるといわれるほど、美しい遺跡です。
ジャフナから北西方面に向かい、ガイドブック空白地帯を目指します。
海の中にずっと道が続いています。橋が見えてきました。2010年の3月18日に開通したスリランカ本島とマンナール島(マンナル島(Mannar Island))を結ぶ新マナー橋です。
橋のたもとの記念碑
「The project for construction of New Mannar Bridge and Improvement of Causeway Grant aid from the people and the government of Japan as a token of friendship and cooperation between Japan and the democratic socialist republic of Sri Lanka」
「新マナー橋(愛(まな)の橋)建設及び連絡道路整備計画 日本国とスリランカ国の友好と協力の証として日本国民および日本政府により寄贈された」
日本とスリランカ政府が協力して架けられた橋です。
内戦中にも関わらず、どうして橋を架けることができたのでしょうか?
新マナー橋の建設に携わった政府の建設責任者ビジュアリンガムさん「工事中でも近くで戦闘があり、怖く感じることもありました。でも頑張れたのは日本人のエンジニア、スリランカに住むシンハラ人、地元のタミル人やイスラム教徒の方々など、多くの人々が『橋を作るために頑張ろう』という強い熱意を持っていたからなのです。」(写真提供:若築建設)
坂本さん「マンナール島の生活に欠かせない橋を作るため日本人が関わっていたと知り、嬉しい気持ちになりました。」
新マナー橋は日本とスリランカの平和の架け橋でもあるのでした。
新マナー橋の近く、知花くららさんが3年前に訪れた場所へ。
ワダカンダル学校をWFP(国際連合世界食糧計画)の前川直樹さん(fighting hunger worldwideの青いTシャツ)が案内してくれました。
内戦が終わって1年後の2010年、知花くららさんは国連世界食糧計画のサポーターとしてこの学校を訪問し、給食プログラムの現場を視察し、子どもたちとも交流しました。
ワダカンダル学校には6歳から15歳まで、417人の生徒が通っています。
知花さんが交流した2年生が3年経って今は5年生になっています。
今は2時間目、社会科で交通ルールの授業中、みんな真剣に勉強しているところでした。
その頃、給食室では生徒のお母さんたちが給食の用意をしていました。今日のメニューは豆のカレーと野菜たっぷりカレーです。小学生用でも青唐辛子をたくさん入れます。ご飯は栄養価の高い赤米を使います。
朝ご飯を食べずに学校へ来る子どもが多いのと、授業が朝7時半から午後1時までということもあって、給食の時間は10時半から始まります。
国連WFPは飢えのない世界を目指して活動しています。その一つに学校給食を支援するという活動があります。学校で給食が出ることで、親が子どもを学校に通わせるきっかけとなり、1日1回でもお腹を満たすことができ、子どもたちも教育が受けられ、彼らの未来がより広がっていくというものです。
このような活動をサポーターとして支援しているのが知花さんです。
一緒に写真に写っていた男の子ニターシャさん「一緒に給食を食べたことは絶対に忘れないよ。綺麗な白いシャツを着て、首からカメラを提げてたんだ。あと頭に眼鏡を乗っけていたのは覚えているよ。」
まだまだ支援は足りず、継続的な援助が必要ということでしたが、みんなの笑顔が平和の素晴らしさを教えてくれました。「知花さんありがとう!みんな元気だよ!」
知花さん「当時は内戦が終わった直後だった。学校にも内戦の傷跡がまだまだ残っていて、子どもたちの中にも教育を受けるブランクができてしまった子もいた。でもスリランカの子どもたちはみんな勉強熱心だった。この子たちが一生懸命勉強してお腹いっぱいになって、これからきっと国を背負っていってくれるんだなと思いました。」
≪インドとスリランカを繋ぐ海の道≫
新マナー橋を渡っていよいよ アダムス・ブリッジ へ。
マンナール島の先端から幻の道へ船で向かいます。
その道の一部へは一般の観光客も行けるようになったのだそうです。
ボートを用意してくれているスタッフは、実はスリランカ海軍の兵士です。平和になったからこのような仕事ができるようになったのです。
この日に限って海は大荒れで、強い波飛沫を浴びながら海上を進むこと1時間、海の向こうにようやく目的地が見えてきました。
島に上陸します。
スリランカ海軍の兵士「アダムスブリッジは全部で16の島があって、この島は3番目の島(Stone of Ramsetu)です。昔は海の中に砂の道があってスリランカとインドは繋がっていました。嵐によって道が切れ切れになり、島になったそうです。」
かつて道だったという島にはたくさんの鳥の群れが集まっています。鳥が空を舞い、埋め尽くしています。
セグロアジサシという渡り鳥で、無人島であるこの島に毎年渡ってきて卵を産み、子育てをしているそうです。彼らにとってこの島は外敵がいない楽園なのです。
スリランカとインドを繋ぐ砂の道を鳥のように空から見てみるため、今回特別に空軍のヘリコプターに乗せてもらい上空へと飛び立ちます。
空からインドへの道を確かめます。
かつてインドとスリランカを繋いでいたというアダムスブリッジを上空から見ると、確かに島と島との間が浅瀬で繋がっているように見えます。
今は海に沈んでしまった砂の道ですが、深いところでもせいぜい水深10mほどで、15世紀頃までは歩いて渡ることができたともいわれています。
インドとスリランカは最も近いところで50kmほど離れています。衛星写真で見ると海の道アダムスブリッジの存在がはっきりと分かります。
インドの古代叙事詩ラーマーヤナには、神の化身ラーマ王子はサルが作った橋で海を渡り、お妃を助けに来たという伝説が残されています。
そのラーマ王子たちが渡って来た道こそがこのアダムスブリッジであり、スリランカの人々の祖先や仏教、さらにゾウまでもこの道を通って大陸からスリランカへやってきたといわれます。
今まで封印されてきたスリランカ北部、最後に辿り着いたのはスリランカの原点ともいうべき場所、アダムスブリッジでした。
海軍の協力を得て、アダムスブリッジの北に位置する離島、デルフト島(Delft Island)へ向かいます。(Neduntheevu or Neduntivu (also known by its Dutch name Delft) )
坂本さん「さすが海軍の高速艇。速い!」
あっという間に30km離れたデルフト島に到着しました。
デルフト島はオランダ統治時代(1658-1796年)から続く要塞の島で、現在は100人ほどが暮らしています。
要塞跡が残っています。
この島にはオランダ統治時代、裁判所が置かれていましたが、現在は床と壁の一部しか残っていません。(裁判所跡)
その裁判所跡の前に、高さ5mくらいの巨大な石の灯籠のように見える四角柱のオブジェが建っています。
上部にはたくさん四角い穴が整然と並んで空いています。
【Question 2】
裁判所跡に置かれた塔の使い方とは?
→鳩小屋(伝書鳩)
背の高い灯籠のようなものの用途について地元の警察官ラリットさんに尋ねると「これは裁判結果をジャフナやコロンボにある裁判所へ連絡するための伝書鳩を飼っていた塔なのですよ。デルフト島は本土から離れた島なので裁判結果や手配書などを迅速に伝える通信手段として伝書鳩を使っていたのです。」
スリランカでも鳩を通信に使う方法は古くから用いられ、2000年以上の歴史があるそうです。
今回の番組取材はスリランカ政府の特別な協力を得て実現しました。
殊の外尽力してくださった駐日スリランカ大使のワサンダ・カランナーゴダさんがスタジオに登場。
出水麻衣アナが同時通訳。
ワサンダ・カランナーゴダさんが日本に赴任されたのは東日本大震災のわずか10日後のことで、被災地を訪問しました。「スリランカと日本はとても親密な関係にあります。どちらの文化も仏教の影響を多大に受けているからです。私たちは良い時も悪い時も互いに寄り添う関係にあり、どちらかが困難に直面している時は助け合ってきました。だからあの時にいち早く援助を申し出たのです。スリランカは小さな国ですが、心は大きな国です。その時に覚えた日本語は『がんばってください』です。にしゃんたさんをとても誇りに思います。彼が日本でエンターテイナーとして大人気なのは嬉しい限りです。彼は私にとっての誇りです。」
≪戦後日本を救った人物の真実≫
日本とスリランカに共通するのは仏教文化が今なお人々の暮らしに深く根付いていることです。
仏教徒が全体の7割を占めるスリランカでは、毎年5月に国中で重要なお祭りが行われます。
アヌラーダプラ(Anuradhapura)のルワンウェリ・サーヤ大塔(Ruwanwelisaya Stupa)にたくさんの人々が集まっています。
満月を祝うポヤデー(満月祭)は、毎月満月の日に開かれています。中でも、5月のポヤデーはヴェサック祭りと呼ばれ、とりわけ盛大です。通りや家の前にはイルミネーションや工夫を凝らした無数の提灯が飾られます。ヴェサック祭りは別名「光の祭り」とも呼ばれ、街中が光で溢れます。
実はこのヴェサック祭りの提灯は日本人の研究者が調べたところ、およそ100年前の明治時代に日本から輸入された提灯が原点になっていることが分かりました。
さらに、日本とスリランカを繋ぐものといえば、カレーでした。
明治時代、スリランカは日本とヨーロッパを結ぶ航路の重要な寄港地でした。(19世紀後半のコロンボの白黒写真)
明治6年、ヨーロッパから帰国途中の岩倉使節団(岩倉具視、木戸孝允、山口尚芳、伊藤博文、大久保利通)がコロンボに立ち寄り、日本人として初めてカレーを食べたという記録が残されています。
明治33年、夏目漱石もイギリスに留学した帰りにカレーを食べたといいます。
19世紀末、アジア各国が西洋列強に植民地化される中で、日本はいち早く西洋の技術を導入し、近代化に成功していました。
同じアジアで仏教を信仰するスリランカの人々にとって、日本は誇るべき仲間であり、目指すべき国でした。しかし、そのスリランカを日本が攻撃したことがありました。(映像提供:オルタスジャパン)
イギリスの植民地となり、セイロンと呼ばれていた第二次世界大戦(1939-1945年)で、日本軍はイギリス艦隊の基地があったコロンボ(Colombo)やトリンコマリー(Trincomalee)を空爆して大きな被害を与えたのでした。
しかし戦後、そのスリランカに敗戦国日本が救われることになります。
≪日本とスリランカの交流秘話≫
特別にマヒンダ・ラジャパクサ大統領に面会する許可を得ました。(2013年3月12日、来日した際、安倍首相と握手する写真)
「アーユボワーン(こんにちは)、ようこそ。」
ラジャパクサ大統領「今回の日本訪問はとても良かったと思っています。これまで以上にスリランカと日本との関係がより深くなったと考えています。」
ラジャパクサ大統領が来日した2013年3月、日本とスリランカの国交樹立60年を記念して、アマラ(メス8歳)、ヴィドゥラ(オス5歳)2頭のゾウが東京都日野市の多摩動物公園に贈られました。
2013年3月12日のスリランカゾウの歓迎式典(ラジャパクサ大統領、多摩動物公園の飼育員山川さん、高円宮承子(たかまどのみやつぐこ)さま)では、ラジャパクサ大統領と承子さまから果物とサトウキビのプレゼントがあり、飼育員から2頭に与えられました。式典で承子さまは「両国の友好と親善がますます深まることを期待します」とあいさつされました。
スリランカから寄贈された2頭の象はまだ来たばかりですが元気いっぱい、3月14日から一般公開され、すでに動物園の人気者です。
さらに多摩動物公園には、両国の友好関係の深さを物語るシンボルが50年以上もいます。日本最高齢のオスのゾウ、「アヌーラ」(推定60歳)です。1958年の開園当時から飼育されていて、今も元気いっぱいです。
アヌーラは1956年、戦後いち早く日本と外交関係を結んだスリランカ(当時のセイロン)から贈られました。それは、承子さまの祖父母にあたる三笠宮ご夫妻が1956年にスリランカを訪問したことがきっかけでした。
その後、高円宮家の長女 承子さまが2013年8月19日から23日にスリランカを訪問することが、8月2日の閣議で報告されました。スリランカ中部の古都キャンディ(Kandy)で装飾されたゾウが練り歩く「ペラヘラ祭り(Esala Pelahera)」を観覧し、古代都市遺跡などの世界遺産を視察するそうです。承子さまは今春、早稲田大学を卒業し、日本ユニセフ協会に勤めておいでです。
宮内庁によると、スリランカのラジャパクサ大統領が3月に来日し、同国から贈られたゾウ2頭の歓迎式典が開かれた際に承子さまが出席したのが縁で、スリランカ政府から「ペラヘラ祭りをご覧いただきたい」と招待があったのだといいます。
こうして両国がお互い様々な場面やイベントを通して交流を深めていくのは、素晴らしいことですね。
スリランカと日本の親密な関係、それは戦後の日本がある1人のスリランカ人の演説によって救われたことから始まります。
ラジャパクサ大統領「第二次世界大戦が終わり、敗戦国日本の処遇を決めるサンフランシスコ講和会議が開かれ、我が国の代表として若い大臣で後に初代大統領になるジャヤワルダナ氏が参加しました。
1951年9月のサンフランシスコ講和会議にて、敗戦国日本は多くの国から莫大な賠償を求められ、日本領土の分割案まで出されていました。
日本列島分割案では北海道から東北福島までをソ連、関東甲信越をアメリカ、近畿・中国・九州・沖縄をイギリス、四国を中国、それぞれ各国が日本領土をバラバラに分割して統治するという案も話し合われました。
そんな日本にとって厳しい状況の中、セイロン代表として演壇に上がったのが、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏でした。
ラジャパクサ大統領「サンフランシスコ講和会議では、被害を受けた国々は激しく日本を非難していました。その時のジャヤワルダナ氏の演説はブッダの教えを用いたもので、『憎しみを憎しみでは解決できない』というものでした。彼の言葉で、多くの国の気持ちが変わったのです。
その時、ジャヤワルダナさんが演説で使った原稿が、コロンボにあるJ.R ジャヤワルダナ資料館(J.R.Jayewardene Centre)に残されています。
これが1951年9月6日のサンフランシスコ講和会議で使った本物の原稿です。
タイプライターの小さな文字で打たれた原稿は、全部で4枚です。
ジャヤワルダナ氏の肉声「日本とスリランカは1000年を越えて仏教の教義を共有している。ブッダは『憎しみは憎むことによって消えず、愛することによって無くなる(hatred ceases not by hatred, but by love.)』と言っている。我々ももう憎しみを忘れようではないか。」
そしてアジアの将来にとって独立した自由な日本が必要だと主張し、賠償請求もしない、という内容の演説を行ったのでした。
その後会議は日本の戦後復興を援助する方向に決まりました。
ジャヤワルダナ氏と当時の内閣総理大臣 吉田茂(1978-1967年)が一緒に写った写真
会議に出席していた吉田茂首相はジャヤワルダナ氏の演説に深く感銘し、感激したそうです。
館長のニハール・ヘイワゲさん「大国から見たらスリランカはとても小さな国です。でも友人を救うために勇気を振り絞って演説をしたのだと思います。彼の演説のおかげで私たちはこうして会うことができたのですよ。」
(新聞記事:the Japanese peace treaty)
その後も日本との友好関係に尽力したジャヤワルダナ氏は1996年11月1日に90歳で永眠しました。彼は「自分が死んだら角膜の一つをスリランカの患者さんへ、もう一つを日本の方へ移植して欲しい」という遺書を残していました。その遺志の通り、角膜は長野県に住む女性に移植されました。「二つの国の未来を見つめ続けていたい」という願いからだったそうです。
黒柳徹子さん「言葉がないです。こんな素晴らしい方たちがいらしたのに、今まで私たちはこういうことを教わってきませんでしたよね。もっともっと学校などで教わる機会があったなら、スリランカのことをもっと身近に感じられたのにと思います。」
中村橋之助さん「不勉強で全然知らなかったです。今こうやって生活をさせていただけることに感謝したい。しかもつい最近までご存命でいらしたことさえ知らないで、残念。後輩などに接する時にこういうことはすごく大事な心だと思います。」
にしゃんたさん「ジャヤワルダナさんには2回お会いしたことがあります。ボーイスカウトの活動をしていたことが日本に来るきっかけでしたが、ボーイスカウトで『大統領バッヂ』というのがあってそれは大統領に付けてもらうものなのですが、その大統領バッヂを付けてくださったのがジャヤワルダナさんなんです。そして、日本に来る時にパーティを開いてくれて、その時も『日本はいい国だよ』って言ってくださったんです。このサンフランシスコ講和会議のときの話は、スリランカでは子どもからお年寄りまでみんなが知っているんですよ。そういう意味では今すごく片思いの状態になっていますから、ぜひこの番組を通して(両国が)両思いになって欲しいなと思います。」
≪スリランカと日本の意外な繋がり≫
日本では100年くらい前から使われている日用品で、その材料のほとんどがスリランカで採れるヤシの実を原料にしたものがあります。
最近、スリランカでも販売されるようになって、これは便利だと評判になっています。
主婦マリカ・プンチヘーワさん「私は毎日、使っているわ」
【Question 3】
ヤシの実を原料とした日用品とは?
→タワシ
まず両手にヤシの実を抱え、尖った石の先に、体重を掛けて上から突き刺しながら、ベリベリと分厚い外皮を剥いていきます。
ヤシの実の中身はココナッツミルクなどの材料などに利用された後、外側の繊維質の部分は通常捨てられてしまうそうですが、それを水に1ヵ月ほど浸けておくと硬い外皮の部分が柔らかくなってきます。
外皮がしんなりとしてきたら水から取り出して機械にセットし、ヤシの繊維部分だけを取り出します。
繊維を適当な太さ(大根の太さくらい)にまとめた後、5cmくらいの大きさにカットしていきます(おでんの大根みたいに)。それを薄く均一に伸ばして針金の間に挟んで、機械でクルクルと回転させて捻ります。
それを二つ折り状に束ねたら亀の子たわしの出来上がりです。
スリランカの椰子の実は繊維が長く丈夫で、たわしにするのに最適なのだそうです。
日本のたわしのほとんどがスリランカのヤシで作られているといいます。
野々村真さん、にしゃんたさんの2人がパーフェクト賞達成!
今回からスタジオのセットが新しくなりました。
黒柳徹子さん「実に良いですね、明るくて。」
天窓から優しい光が差し込む博物館をイメージしているのだそうです。
スリランカへの日本人渡航者数は順調に推移しており、2012年は前年比26.7%増の2万6085人と増加。スリランカの渡航者層は30代、40代がもっとも厚く、男女比はほぼ同じ。スリランカ政府観光局では20代の若い層を取り込み、さらなる底上げを目指し、2016年までに日本人渡航者を12万5400人まで伸ばしたい考えという。
スリランカでは2013年3月18日に、コロンボ首都圏のバンダラナイケ国際空港に次ぐスリランカ第2の国際空港となるマッタラ・ラジャパクサ国際空港が南西部マータラに開港しました。ヤラ国立公園などへ向かう際の国内旅行の足として利用できるようになりました。ホテルは現在2万6000室ほどの客室数を4万室程度まで伸ばしたい考えで、現地ではホテルの建設ラッシュが続いています。このほか、WiFiスポットの拡大、空港からコロンボ、コロンボからゴールまでの高速道路の敷設などインフラの整備が進行中です。
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コメント
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本日は満月です。開運日です。
お月さんって、すごく力があるんですよ。
今日、一度ゆっくり見ることをおすすめします。
力が自然とわくんです。
これ、何かに書いてあったとか、言い伝えとかでなく実体験なんです。
後から、なるほど、月を見ながら、全世界で
色々言い伝えとか、いわれとか、考えたんだなってわかるんですが、
とにかく、今日の満月、皆さん見てみませんか。
月には自然の力が湧き出しています。
7月は満月が2回!
ブルームーンを楽しめます
今月は満月が2回起こる珍しい月です♪
夜空に輝くま~るいお月様を、みんなで楽しもう!
【1回目】7/2 (木)
【2回目】7/31 (金)
ブルームーンとは?
月の満ち欠けは、平均約29.5日周期で繰り返されます。このため、たまにひと月で2回満月を迎える時があります。
1回目の満月は「ファーストムーン」と呼ばれ、2回目の満月は「ブルームーン」と言います。
「ブルームーン」とは言いますが、月が特別に青く見えるわけではありません。でも、綺麗な満月を月に2回も楽しめるのは、やはり特別な事♪
夜空に輝く、まん丸いお月様を、思う存分に楽しみたいですね!
8月15日は終戦記念日です。
我が家での戦前生まれの家族は母方の祖母1人だけとなりました。
亡き祖父からは戦時中の話をよく聞いていたので、平和の尊さに感謝しています。
この先ずっと「世界が平和」でありますように。
スリランカで低所得層対象の学習塾を新たに 2校舎開校
“教育のゲーミフィケーション”を具現化!
クラウド型学習システム「すらら」
2017年末までに 100教室 生徒数 10,000名を目標に策定
株式会社すららネット(本社:東京都千代田区、代表取締役社長:湯野川孝彦)は、スリランカのBOP層(※1)の子どもたちを対象とした学習塾を新たに2校舎、コロンボ近郊において開校します。
(※1)「Base of the Pyramid」の略。世界の所得ピラミッドの中で最も収入が低い所得層を指す言葉。約40億人と言われている。
既存校で子どもたちが学習する様子
新たに2校舎を開校するに至ったのは、本年5月にコロンボ市内で開校した2校が開校時点で各50名の募集定員を上回る計107名の入塾希望により空席待ちの状態となり、8月末時点で設備を増加し生徒の受け入れ体制を整えたところ、両校合わせて計150名という当初定員の40%を上回る好評を得ていることによります。これは、現地で評価の高い「日本ブランド」を前面に打ち出し、「挨拶」、「手洗い」といった日本流の「しつけ」も重視しつつeラーニングの先進的なイメージ訴求をしたことが理由です。加えて、比較的低学力だった生徒たちが早々に学力を伸ばしていくことを実感したファシリテーター(授業時の生徒たちの世話役)たちが、この教育方式に自信と確信を深め、好感触を得ていることから、運営パートナーである女性銀行が追加開校を決定しました。今回、新校舎開校のため9月13日に保護者説明会を実施したところ、2校合わせて即日220名を超える入塾申込みをいただきました。
今回のプロジェクトは、独立行政法人国際協力機構(JICA)による民間連携事業協力準備調査 BOPビジネス連携促進の採択を受け、スリランカのBOP層の子どもたちに、教師のレベルに左右されずに効果性の高い算数教育を低価格で提供するeラーニング塾のビジネスモデルの構築を目指し、2014年9月に開始しました。
女性銀行(※2)とFoundation for Health Promotion(FHP)(※3)を運営パートナーとし、BOP層の女性をeラーニング塾のファシリテーターとすることで、BOP層の女性たちの雇用拡大・自立支援を行うことも目的の一つとしています。既存校においては、すららネット本部の訓練を受けた教務経験の無い女性達が円滑に運用を進めています。また、今回の新規開校に向けて訓練中のファシリテーター候補8名も10代から40代までの女性中心のメンバーとなっており、教務未経験者も含まれていますが意欲的に研修を受講しています。
(※2)女性銀行:BOP層の女性を対象としたマイクロファイナンス組織。個人塾の独立開業希望者に低利ローンを貸し出すことでBOP層からの脱却をサポートする役割の担い手として期待される。
(※3)Foundation for Health Promotion(FHP):BOP層を対象に親の健全な生活習慣を根付かせることにより子どもの教育レベルを引き上げるなどの活動を行う組織。
すららネットでは、これまでの成果を踏まえ、スリランカにおいて2017年末までに100教室、生徒数10,000名を目標として策定しました。「世界中の教育格差の根絶」を理念としており、今後も品質の良い教育を低価格で提供することで、教育格差を解決していきたいと考えています。
11月18日、英国に本部を置くフリージャーナリスト支援団体「ロリー・ペック財団」が主催する「ロリー・ペック賞」の2015年の授賞式がロンドンで行われ、過激派組織「イスラム国」(IS)に殺害されたフリージャーナリスト 後藤健二さんらが顕彰された。
同財団は、後藤さんの解放を求める妻の肉声メッセージを公開するなど、救出に尽力したことで知られる。
20回目を迎えた今年の授賞式には約450人が出席。優れた報道を世に送り出したフリーカメラマンらを表彰した後、後藤さんや2012年にシリアで殺害された山本美香さんら、これまでに取材中に命を落としたカメラマンら120人の名前や写真をスクリーン上で紹介して顕彰した。
挨拶に立った同財団のティナ・カー代表は、後藤さんについて「勇気のある人だった。紛争地で普通の人々を撮り続けた」と述べ、哀悼の意を表した。
世界では 7億9500万人、およそ 9人に 1人が飢餓に苦しんでいます。
国連の食糧支援機関である国連WFPは、最も貧しい暮らしを余儀なくされている人を対象に食糧支援を行っています。
2014年は、およそ 82カ国で 8,000万人に食糧支援を行いました。
あなたは国連WFPの活動をご存じでしたか?
国連WFPは、50年以上にわたり世界中の途上国で学校給食プログラムを行ってきました。2014年には、65の途上国において、およそ1,820万人の子どもたちに給食を提供しました。
『学校給食プログラム』がもたらす効果とは、成長に必要な栄養を摂ることができる。親が子どもを学校に通わせるきっかけを作っている。空腹が満たされ、集中して学べる。女の子も学校に通うことができる。
貧困に苦しむ国々では、子どもが学校へ通えるようになることで、将来的に下記のような効果が期待できます。
・ 就学率、出席率の向上につながる
・ 男女間の教育格差をなくす
・ 貧困の連鎖を断ち切る
・ 国家の将来を担う人材の育成につながる
このことをご存じでしたか?
国連WFPが行なっている『学校給食プログラム』は、子ども 1人につき、およそ 30円で 1日分、5,000円で一年間学校給食を届けることができます。
あなたは『学校給食プログラム』を支援したいと思いますか?