モザンビーク島のマクティエリア Makua People’s culture in Mozambique Island similar to Japanese one

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2013年6月8日放送「世界ふしぎ発見!」(第1277回)は、「信長最期の刻 本能寺にいた「漆黒のサムライ」を追え!」(ミステリーハンター:宮地眞理子さん)でした。

 

 

舞台は番組初取材の東アフリカの秘境モザンビーク(Mozambique)。

しかしテーマは戦国の英雄、織田信長です。

天下統一目前にして本能寺で無念の最期を遂げた織田信長ですが、愛知県にある西山自然歴史博物館※には、信長ゆかりのものがあるのだそうです。※愛知県瀬戸市定光寺町・愛知高原国定公園(応永の乱出陣戦勝祈願地)

西山自然歴史博物館館長の西山武さん「信長公の御霊(みたま)がここに眠っておられます。」

西山館長は実は織田家の血筋の方です。

信長の出身地でもある愛知県の山奥で密かに守られてきた御神体「御霊」の正体とは、信長の死後、粘土で顔面の型を取り、金が塗られて作られたデスマスク(死面)です。

デスマスクは重厚な漆塗りの木箱に収められ、祭壇に祀られていました。

この信長公御霊として残されたデスマスクは、大きな鼻、口髭など私たちが歴史の教科書などで見かける信長の顔かたちのイメージ※そのものです。(※長興寺所蔵・豊田市郷土資料館写真提供)

定説では、信長の遺体は消失し見つかっていないはずですが、

西山館長「本能寺の変の時、黒人の彌助(弥助・やすけ)という家臣が信長の首を持って本能寺を脱出したんです。」

 

フィギュアスケート選手、信長から数えて17代目の末裔である織田信成さん「デスマスクの存在は知らなかったです」

ボビー・オロゴンさん(ナイジェリア連邦共和国出身)「その時はまだ生まれてなかった」

岩下尚史さん「家臣にしたのは、(黒人が)神秘的で、この世のものではないような印象を持ったのかもしれない。」

黒柳徹子さん「(彌助の話は知っていた)ユニセフ親善大使でモザンビーク首相と話した時、ポルトガルの植民地で700年くらい自分たちの歴史が分からないという話を聞だったので、信長に黒人の家来がいたという話をしたときに、物凄く喜びになった。」

 

駒澤大学 副学長の久保田昌希さん「駒澤大学図書館所蔵の『家忠日記(いえただにっき)』は家康の義理のいとこである徳川家忠の自筆の日記で、そこには『1582年4月19日、信長が戦の帰りに、家康の元に寄った時、身は炭の如く、丈は6尺2分(1.8m位)、名は弥助というくろ男(黒男)を連れていた』という記述が残されています。信長は当時の日本人の平均身長よりちょっと大きかったかも知れませんから、それでもまあ160何センチというところでしょう、それよりも彌助は180センチともっと大きかった。しかも黒人と言うことで目立つ存在ですし、そういう大男の彌助のことを信長は得意になってお供に連れていたのではないかと思います。」

≪信長と彌助の出会い≫

「信長公記」では「1581年2月23日、キリシタン国から黒坊主が参上、年の頃は26、7。全身の黒いことは、牛のようである。見るからに逞しく見事な体格。その上、力の強さは十人力以上である。」

「イエズス会 日本年表」では「信長もこれを観んことを望んで招いた。炭でも塗ったものだと思い、帯から上の着物を脱がせてその場で体を洗わせたが、皮膚は白くなるどころかいっそう黒く光った。」

宮地さん「初めて肌の黒い人を見た信長は、どうしても信じられなかったのでしょうねえ。」

信長はこの黒人を大いに気に入り、家臣にして彌助という名前を与えました。ただ珍しかっただけではなく、信長は彌助の才能を買ったようです。

彌助は十人力の力を持ち、ボディーガードとして役立つだけでなく、日本語も話すことができたそうで、海外への興味が強かった信長は大いに喜んで、長々と話し込んでいくつも質問をしていたといいます。

 

≪当時なぜ黒人が日本にいたのか?≫

大阪府の南蛮文化館へ。

南蛮文化館館長の矢野孝子さん「南蛮屏風には、ポルトガルから長崎の港に到着した場面が描かれています。その当時、ポルトガルはアフリカに植民地があったので、従者とか奴隷としてそこから彼らを連れてきたんです。」

信長と彌助が出会う38年前、ポルトガル人が日本に漂着しました。

以来、商人や宣教師がアフリカを経由し、黒人のお供を連れて続々と日本を訪れるようになったのだそうです。

宣教師たちはキリスト教の布教を進め、次々と南蛮寺(なんばんじ)と呼ばれる教会を建設しました。

彌助もそんな宣教師の1人である、ヴァリニャーノ神父のお供として日本へとやってきたのでした。

矢野館長「(南蛮人燭台は)その当時、黒人というのが、ちょっと不思議な感じで映ったと思うんです。それでその人たちをモチーフにして燭台を作ったんです。」

南蛮人燭台の他にも、南蛮人蒔絵硯箱など、当時の道具には黒人がデザインされたものが多くあります。彼らはどこに行っても大人気だったそうです。

 

滋賀県の安土山、この山頂に信長の居城、安土城がそびえていました。

安土町のゆるキャラ、らんまる君が持ってきたのは「VR安土城タイムスコープ」です。VR安土城タイムスコープは安土で2013年4月から導入されたケータイ端末用アプリで、セミナリヨ(神学校)跡など、一定の場所で画面を向けると全12カ所で当時の様子が端末画面に映し出されるそうです。

1582年の甲州征伐(織田軍と武田軍の戦)

信長はどこに行くにも弥助を従えていたといい、出会って1年後には戦に同行させていたといいます。信長の横で武勲をあげて信用を深めていったのかもしれません。

安土城のお堀の水辺を船頭さんが操る木の小舟に乗って移動します。

「イエズス会 日本年表」では「信長は弥助を厚く庇護し、彼を殿にしようとしていた。」とあり、どれだけ信長が彌助を信頼していたかが分かる記述で、それだけ彌助は才能を認められていたのでしょう。

また、彌助はそれまで奴隷だった自分を救ってくれた信長に恩義を感じていたのかもしれません。

透明な球体の中に入り、琵琶湖の岸近辺で遊ぶ人気アトラクション「ウォーターボール」に乗って移動します。

それにしても弥助は奴隷になる前アフリカでどんな生活をしていたのでしょうか。

残念ながら弥助が日本に来る前を記した文献は残っていないそうです。

信長のもとに弥助を連れてきたのは宣教師ヴァリニャーノでした。彼の足跡をたどればアフリカのどこから来たのか特定できるはずです。

彼の航海を遡ると、日本の前がマカオ、マラッカ、インド、そしてモザンビークでした。

「日本巡察記」によるとヴァリニャーノはアフリカでモザンビーク以外には立ち寄っていなかったそうなので、彌助の出身地はモザンビークであろうと推察されます。

 

当時日本を訪れた宣教師たちは初めて見た日本のある習慣に驚いてこんな記録を残しています。「ヨーロッパでは女性が持つものを日本では男性が必ず持っている。もしヨーロッパの男性がそれを持っていたら、軟弱だと蔑まれるだろう。」

 

【クイズ1】
西洋人が軟弱だと蔑んだ 日本人男性が持っていたものは?
→扇子

松田毅一、E・ヨリッセン著「フロイスの日本覚書」では、16世紀日本にきていた宣教師フロイスの記した日本覚書には日本の男は扇子をいつも帯のところに携え、それを使用しないのは卑しく、かつ惨めなことである。」とあります。

ヨーロッパでは女性のアクセサリーだったが、日本では男女問わず贈り物や実用品として使われてきました。

岩下尚史さん「昔の男性にとっては扇ぐためというよりも形を付ける(格好を付ける)ため、笏(しゃく)※の代わりだったそうで今よりも大きくて立派なものだったそうです。現在の扇子と比べて骨が少なくて長い扇子の原型である蝙蝠扇(かわほりおおぎ)。」※聖徳太子が両手で持っている細長い板

ボビー・オロゴンさん「ナイジェリアの男性も(日本とは形がちょっと違うけど)扇子を持つんです。」

 

 

スタジオでは織田さん165cm、ボビーさん185cm、例えてみればちょうど当時の信長と彌助が一緒にいるようです。

ボビーさんと織田さんが互いに「信長様!」「彌助!」と呼び合いながら、抱擁。まるで何かが乗り移ったかのように、二人が固く抱き締め合いました。

ボビーさん「信長様、一生守りますよ」

 

成田国際空港からモザンビークへ。

 


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モザンビークまではおよそ1万3,000kmです。日本からは香港、南アフリカを経由して2日の道のりです。

首都マプトにあるマプト中央駅。

マプトはポルトガル人が計画的に建設した街で、今でもヨーロッパ風の建物が並び、植民地時代の面影が残っています。

しかしマプトの街では弥助を知っている人はいませんでした。

 

エドムンド・モンドラネ大学のモザンビーク歴史資料館の歴史学者ルイス・フィリップ・ペレイラさん「そもそもですが、当時のモザンビークというのは、ここではなくて北に浮かぶモザンビーク島という島のことを指します。当時そこにはポルトガルの基地があって、彼らはそこから世界中に船出していたのです。様々な部族がいるので、日本に行った黒人がどの部族だったかを特定するのは非常に難しいです。しかし16世紀当時、ポルトガル人は マクア (Makua) という部族しか認識していなかったという記述があります。マクアの人々 (Makua People) は昔から島の周辺に住んでいたので、その黒人はマクアの人だった可能性が高いと思います。」

The Makua are a Bantu ethnic group of Southeast Africa and Southern Africa and the largest ethnic group in Mozambique, and also have a large population across the border in the Masasi District of Mtwara Region in southern Tanzania.(http://en.wikipedia.org/wiki/Makua_people)

マプトから北へ1,500km移動します。

≪モザンビーク島へ≫

モザンビークの東海岸から4km沖合いのモザンビーク海峡に浮ぶモザンビーク島は、長さは約3㎞、幅は500mほどの小さな珊瑚礁の小島です。

そして現在、モザンビーク島は、巨大な橋が架けられて本土と繋がっています。

16世紀の建物がそのまま残されていて、島全体が世界文化遺産(Island of Mozambique)に登録されています。

 


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1498年ヴァスコ・ダ・ガマがやってきたのを始まりに、ポルトガルはこの島を占領しました。

サン・セバスティアン要塞など、港と海軍拠点を建造し、ポルトガル領東アフリカの首都として機能しました。

ポルトガルはここを拠点にして世界中へ船出していきました。

島の周辺では、今でも昔のポルトガルのコインがたくさん見つかるそうです。

当時いかにモザンビーク島が栄えていたかがうかがえますね。

ノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂

フランシスコザビエルもモザンビーク島から日本へ向けて旅立ったのだそうです。この島はキリスト教の重要な伝道拠点でもあったそうです。

島の南側にマクアの人々が暮らすマクティというエリアがあるそうです。

マクティエリアは人口およそ17000人、素朴な生活は何百年も変わっていないそうです。

 

≪450年前の彌助の手がかり≫

マクティエリアには、「ヤスフェ」という名前の人が、60~70人いるそうです。

モルディ・ヤスフェさん(24歳)、イスフォダデ・ヤスフェさん(21歳)、アマド・ヤスフェさん(24歳)など・・・。

このヤスフェという発音、なんだかヤスケに似ていますよね。

つまり、元々はヤスフェという名前の人だったのが、日本人風で発音もしやすい名前「ヤスケ(彌助)」に変わった可能性が高いのです。

未舗装の集落には茅葺き屋根の家々が並んでいて、大人も子どももみんな裸足で過ごしています。

素朴ではありますが誰もがみんな仲良く暮らしているマクアの人々、日本にやって来る前の彌助もこんなふうに幸せな生活を送っていたのでしょうか。

信長についての映像を見てもらいました。

アマド・ヤスフェさん「もちろん大変な人生だったと思うけれど、そういうことに順応できるような前向きな人だったんじゃないかな。とても勇敢な人だったと思うよ。 」

幸福に暮らしていた弥助は、なぜ奴隷になってしまったのでしょう。

マクア長老モルディ・アンディークさん(85歳)「ひいじいさんから聞いた話だが、ポルトガル人が良い仕事があると誘いに来て、若者達は内容も知らずに希望を持って船に乗ったそうです。でもその仕事というのが奴隷だったんです。」

16世紀、モザンビーク島を拠点にポルトガル人が売買していたのが、奴隷でした。

彼らは労働者として売られるか、従者として海外へ連れて行かれました。

彌助もそういった1人として、ここから海を渡って行ったと考えられます。

弥助が宣教師ヴァリニャーノと行動を共にしていたとすれば、故郷を離れ日本にたどり着くまで5年ほどです。信長と出会った頃が25歳頃だったとすれば、 20歳くらいまでモザンビーク島で過ごしていたことになります。

 

今ではモザンビークでも公用語となっているポルトガル語ですが、日本にもポルトガルから伝わったある言葉があります。

その言葉、ポルトガル語では体のある部分の名前なのですが、日本ではそれは、よく子供の頃、大人にされるこある動作を表す言葉になっています。

 

【クイズ2】
子どもが大人にしてもらう、ポルトガル語が起源とされることは?
→おんぶ

通訳のフィフティさん「(ポルトガル語で脚は)ペルナス、(ポルトガル語でお腹は)シントゥーラ、(ポルトガル語で肩は)オンブロ」

おんぶの語源は諸説あるが、一説にはポルトガル語で肩を表すオンブロが日本に伝わり、おんぶになったといわれています。

 

 

織田信成さん「謀反の主犯である明智光秀の家紋である桔梗(ききょう)を近くに置いてはいけない(明智の家紋を出してはいけない)、という家訓があります。」

≪信長のデスマスクはなぜ存在するのでしょうか?≫

八〇円焼き鳥専門店「信長」にて諸岡なほ子さんと。

ポルトガル人が持ち込んだ軍鶏(しゃも)を焼き鳥にして初めて食たのも信長と言われています。

信長と出会い行動を共にしていた弥助、幸せな未来が待っていると思われた矢先、日本史上の大事件に巻き込まれることになりました。

1582年6月に起きた本能寺の変でした。

当日の弥助の足跡を記した「イエズス会 日本年表」では「信長に贈った黒人が信長の死後、世継ぎの屋敷に赴いた。」

彌助は本能寺で明智軍と闘い、信長の死後、その長男信忠のいる二条新御所に向かったとされています。

本能寺から二条新御所へは、およそ10分の距離です。多くの明智軍が既に城を包囲していたそうですが、その中で彌助は勇敢に戦ったそうです。

「イエズス会 日本年表」では、「明智の家臣が彌助に近づいて『恐るることなくその刀を差し出せ』と言い、彌助は観念して刀を差しだした。家臣は彌助を如何に処分すべきか、明智に尋ねたところ、『彼は日本人ではない故何も知らないので、これを殺さず、聖堂に置け』と言った。」弥助について記録に残っているのはここまでです。

弥助がここまで来たのは、せめて大好きだった信長の長男だけでも助けて恩返しをしたいという思いだったのかもしれません。

そんな中、信長のデスマスクはどのような経緯でできたのでしょうか?

西山家に伝わる文書によると、弥助は信長の首を持って本能寺を出た後、そこから5分ほどの南蛮寺へ向かった。そして首を隠した後で、二条新御所へ向かったのだそうです。信長の首は密かに別の家臣がこの地へ運んできたというのです。

西山自然歴史博物館の西山館長「デスマスクという西洋の風習を使って信長の御霊を後世に遺した。彌助は最後に偉大なことを成したと思います。」

 

彌助のその後がどうなったのかは謎に包まれているそうですが、じつは弥助と繋がりそうな記録がいくつかあるそうです。

本能寺の変の2年後、1584年に長崎で起きた戦「沖田畷(おきたなわて)の戦い」の記述には、黒人が出てきます。(尚古集成館蔵)

沖田畷の戦いは、キリシタン大名の有馬晴信と龍造寺隆信が争った戦で、「有馬側には2門の半筒砲(はんづつほう)があったがその場に砲手がいなかった。そのとき一人のアフリカの黒人(カフル人)が現れて大砲を使いこなし、敵を粉砕して有馬家に勝利をもたらした」(完訳フロイス日本史)のだそうです。

西洋人の従者として航海し、鉄砲隊でも有名な織田軍で戦った彌助なら、銃火器の扱いができたとしても全く不思議なことではないでしょう。

宣教師ヴァリニャーノは信長の元を訪れる前に有馬家を訪ねていました。弥助は面識のあったキリシタン大名を頼って、九州まで訪ねていった可能性があったのです。

 

マクアの人々が歓迎の踊りを披露してくれたのですが、その顔は白粉のように真っ白で、足は正座、衣装のキマウと呼ばれる着物はどこか日本の着物(Kimono)を思わせます。

MOZAMBIQUE`S LARGEST MATRIARCHICAL TRIBE WHICH STILL HOLDS ITS ANCIENT ANCESTRAL WORSHIP INTACT AND ARE NOTED FOR MUSIRO FACIAL PAINTING (http://kwekudee-tripdownmemorylane.blogspot.jp/2013/03/makua-people-mozambiques-larhest.html)

もしかしたら弥助が故郷に戻り、日本で見た文化を伝えたのかもしれません。

駐日モザンビーク大使ベルミロ・ジョゼ・マラテさん「彌助と信長の出会いというのは今に繋がる日本とモザンビークの友情の種であり、最初のきっかけだっと思います。モザンビーク人として彌助が行ったことを誇りに思います。これからも私達2カ国は2人が築いてくれたこの友情を未来に繋げていきたいですね。」

じつは信長は弥助の他にもユニークな技を持った家臣を従えていました。

その特技は今では職業になっています。

 

【クイズ3】
信長が従えていた家臣のユニークな特技とは?
→相撲

東康彦さん、西正三さんは、当時その特技を持っていた方のご子孫で苗字もそれにちなんで信長から与えられました。

元々相撲とは神に捧げる儀式でしたが、信長は相撲が好きで頻繁に大会を開催し、活躍した者には褒美を与えたり部下に取り立てたりしていたそうです。(絵本拾遺信長記)

東さんと西さんは相撲大会で勝ち続けたライバル同士です。その強さに信長は両者を称えて、それぞれが土俵に上がった方角にあやかった苗字を与えたのだそうです。

相撲遊楽図屏風(堺市博物館蔵)には黒人の姿も描かれています。彌助も相撲を取り、十人力の力で信長を喜ばせたのかも知れません。

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コメント

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    ムシロの原料を収穫しに行く女性たちに同行。森の中で斧や鉈で木の枝を切り取ります。枝から樹皮を剥ぎ取ります。剥いた木片を平らな石の上に擦り付け続けていると、樹液が混ざった白色の粉が出てきます。これに水を加えてできあがるのがムシロです。
    クロワンバ村は母系社会であり、男性が婿入りします。夫は早朝から漁に出ます。伝統的な追い込み漁です。奥さんはタコ取り名人です。2本の鉄の棒を器用に使って海辺に隠れているタコを次々に捕獲。浜辺の砂をまぶしてから棒で何度も叩きます。こうすると、身が柔らかくなるそうです。彼らは、獲った魚やタコを行商人に売って換金していました。夫が不漁で帰宅し、奥さんのほうが稼ぎが良い日もあり、そういう時、旦那さんは奥さんに罵られます。「こんな稼ぎじゃ暮らしていけない!」でも、旦那さんは口答えはしません。夕食が始まる頃、歩いて10分ほどの所に住む、妻の母がやってきて一緒に食べます。「うちの料理は世界一美味しい」と、バツが悪そうに旦那さんが言います。家庭内では女性が全ての実権を握っています。そして、子どもたちの将来を決めるのは、夫婦(父母)ではなく、母方の祖母(妻の母親、おばあちゃん)です。おばあちゃんは「男には何も口出しさせない」と言い切ります。また、共働きの夫婦が多いこともあり、村の子どもたちは成人するまで、祖母の家で育てられます。

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      2015/09/05、元モーニング娘。の吉澤ひとみさんが一般男性との婚約を発表。

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      京都の舞妓さん、芸妓さんも白塗りの厚化粧をしていることだし、文化的にどこか日本にも通じるものがあるのではないでしょうか?

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      2015年11月22日、元 モーニング娘。のリーダーでタレントの吉澤ひとみさん(30)が、婚姻届を提出したと所属事務所を通じて発表した。相手の男性(39)は芸能人ではなく、9月に婚約を発表していた。吉澤さんは「11月22日に入籍致しました。2人で支え合い、笑顔と優しさが溢(あふ)れる明るい家庭を築いていきたいと思います」とコメントを寄せた。

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    “氷上のお殿様” 織田信成さん、JOYSOUNDの新CMでちょんまげ姿を初披露!

    47都道府県にちなんだ豪華賞品が当たる「カラオケ天下統一バトル」も8月1日より開幕!
    株式会社エクシング(本社:名古屋市瑞穂区桃園町3番8号、代表取締役社長:吉田篤司)は、「JOYSOUND」の2015年イメージキャラクターに、国民的キャラクターとして、明るく誰にでも愛されるプロフィギュアスケーター 織田信成さんを起用。“好きな曲を好きなように全力で歌おう!”というコンセプトのもと開発された業務用通信カラオケ「JOYSOUND MAX」の新CM「土手にて」篇の放送を8月1日(土)より全国で開始します。
    本CMの見どころは、馬ではなく、小さな白いポニーに颯爽とまたがり、スーツにマイク型のちょんまげというシュールな姿で大きな口を開けて笑い続ける織田さん。現代に舞い降りた戦国武将が人々を率いるかのように、その元気な笑い声に誘われて、歌いたい気持ちを抑えられなくなったたくさんの人たちが織田さんのマイクに群がり大合唱。その光景を見ているだけで、思わず“大声を出しにカラオケに行きたい!”という欲求を掻き立てられる内容となっております。

    歌は決して上手な方ではないものの、休日にはよく家族と一緒にカラオケで好きな歌を思いっきり歌って楽しんでいるという織田さん。本CMでは、歌の上手さに関わらず、周囲まで明るくしてしまうようなはつらつとした笑顔の持ち主であり、誰よりもちょんまげ姿が似合う織田さんを全面に打ち出すことで、「歌いたい歌を、元気いっぱいに歌いたいように歌おう。心のままに、自由に、のびのびと歌おう。遠慮せずに。誰かの目線なんて気にせずに。上手下手など気にせずに。」という「JOYSOUND MAX」のコンセプトをコミカルに表現しています。

    なお、本CMのために制作したオリジナルソング「大声だそんぐ」は、底抜けにポジティブな歌詞と耳に残る力強いメロディが魅力。老若男女、誰もが大声を出して歌える、カラオケの盛り上げソングとしても、ぴったりの 1曲です。本楽曲は、8月1日(土)よりカラオケ配信を開始するほか、着うた®等での配信も予定しております。

    さらに8月1日(土)より、ユーザー参加型の「カラオケ天下統一ライブ」の開催をかけたキャンペーン「カラオケ天下統一カラオケバトル」を開催します。対象機種「JOYSOUND MAX」「JOYSOUND f1」「JOYSOUND fR」「JOYSOUND響」を導入のカラオケ店舗で、ご自身のスマートフォンをカラオケリモコンとして使えるアプリ「キョクナビJOYSOUND」(無料)で、お好みの楽曲を選曲、ご予約ください。10万曲、15万曲と、全国のユーザーにより歌唱された曲目数が一定数をクリアするたびにアプリ内で使えるスペシャルコンテンツをプレゼント、20万曲突破で「カラオケ天下統一ライブ」(2016年3月予定)の開催が決定します。

    さらに、JOYSOUNDで配信されている25.5万曲の中に隠された対象曲をアプリ「キョクナビJOYSOUND」で予約した方には47都道府県にちなんだ「天下統一の逸品」が当たるチャンスも!この機会をお見逃しなく、織田信成さんとJOYSOUNDのコラボレーション企画をお楽しみください!

    【織田信成さんプロフィール】
    織田信長の17代目の末裔として注目され、世界一と評される柔らかく美しいジャンプを武器に、世界を舞台に活躍。2013年の引退発表後は、プロフィギュアスケーター、コーチ、スポーツ解説者、タレントとしてマルチに活躍の場を広げている。
    TV-CMの再生はこちら 特設ページ:https://max.joysound.com/

    ==  「カラオケ天下統一バトル」 概要  ==
    ◆実施期間 : 2015年8月1日(土)0:00 ~ 12月31日(木)23:59
    ◆対象機種 : JOYSOUND MAX / JOYSOUND f1 / JOYSOUND fR / JOYSOUND 響

    ◆応募方法

    ★みんなで20万曲以上歌って「カラオケ天下統一ライブ」を実現させよう

    対象機種を導入のカラオケ店舗で、自身のスマートフォンをカラオケのリモコンとして利用できるアプリ「キョクナビJOYSOUND」(無料)からお好みの楽曲を選曲し、送信してください。

    ≪賞品≫
    ・10万曲( 50%)達成で…天下統一キョクナビスタンプⅠ 無料開放
    ・15万曲( 75%)達成で…天下統一キョクナビスタンプⅠⅠ 無料開放
    ・20万曲(100%)達成で…「カラオケ天下統一ライブ」開催!(2016年3月予定)
    ※開催地未定。会場までの交通費は自己負担になります。あらかじめご了承ください。

    ★対象曲を歌って47都道府県にちなんだ「天下統一の逸品」を当てよう

    対象機種を導入のカラオケ店舗で、自身のスマートフォンをカラオケのリモコンとして利用できるアプリ「キョクナビJOYSOUND」(無料)からお好みの楽曲を選曲し、送信してください。25.5万曲の中に隠された対象曲を見事選曲すると、「天下統一の逸品」が当たるチャンス!スマートフォンの画面に表示される応募フォームに従ってご応募ください。

    ≪賞品≫47都道府県にちなんだ「天下統一の逸品」…抽選でそれぞれ1名様(合計47名様)
    ※8月は第一弾として、北海道・東北地方の名産品をご用意。賞品は毎月更新されます。

    キャンペーン特設ページ: https://www.joysound.com/web/s/campaign/730/index

    ■スマートフォンアプリ「キョクナビJOYSOUND」
    自分のスマートフォンがカラオケリモコンに変身!
    好きな写真や動画をカラオケの背景に表示したり、楽器演奏を楽しむことも可能!
    詳細はこちら: https://www.joysound.com/web/s/joy/naviapp

      • k-co
      • 投稿日 (Posted on):

      ちょんまげ姿の織田信成さんが、海辺で出会った美少女と・・!?

      氷上のお殿様が出演するJOYSOUNDのTV-CMに新展開!

      株式会社エクシング(本社:名古屋市瑞穂区桃園町3番8号、代表取締役社長:吉田篤司)は、国民的キャラクターとして明るく誰にでも愛されるプロフィギュアスケーター、織田信成さんをキャラクターに起用した業務用通信カラオケ「JOYSOUND MAX」のTV-CMの第2弾、「海辺にて」篇の放送を8月12日(水)より全国でスタート。初めて“ちょんまげ”をつける織田さんの姿などを収めたメイキング映像も、あわせて特設ページにて公開します。

      8月1日(土)より放送を開始した第1弾「土手にて」篇で、織田信長の17代目の末裔である織田信成さんが、お殿様のような(マイク)ちょんまげ姿を初披露したことでも話題となっている本CM。第2弾の舞台となるのは、荒波が打ち寄せる海辺。第1弾同様、小さな白いポニーにまたがり、スーツにマイク型のちょんまげというシュールな姿で大きな口を開けて笑い続ける織田さんの目に飛び込んできたのは、黒髪が印象的な美少女。失恋でもしたのだろうか、今にも泣きだしそうな表情で浜辺にしゃがみ込み、波打ち際を見つめる彼女に、満面の笑みで「乗ってかない?」と声を掛ける織田さん。そのユニークな姿とポジティブな力に、萎れかけた花が美しさを取り戻すように暗い表情が一転、少し戸惑いながらも笑顔をのぞかせます。織田さんの後方に彼女をのせて、再び歩き出す白いポニー。嫌なことなど吹き飛んでしまったかのように、夢中で織田さんのマイクちょんまげに向かい、大声で歌う彼女の姿に、思わず“大声を出しにカラオケに行きたい!”という欲求を掻き立てられる内容となっております。

      歌は決して上手な方ではないものの、休日にはよく家族と一緒にカラオケで好きな歌を思いっきり歌って楽しんでいるという織田さん。本CMでは、歌の上手さに関わらず、周囲まで明るくしてしまうようなはつらつとした笑顔の持ち主であり、誰よりもちょんまげ姿が似合う織田さんを全面に打ち出すことで、「歌いたい歌を、元気いっぱいに歌いたいように歌おう。心のままに、自由に、のびのびと歌おう。遠慮せずに。誰かの目線なんて気にせずに。上手下手など気にせずに。」という「JOYSOUND MAX」のコンセプトをコミカルに表現しています。

      なお、本CMのオリジナルソング「大声だそんぐ」は、底抜けにポジティブな歌詞と耳に残る力強いメロディが魅力。老若男女、誰もが大声を出して歌える、カラオケの盛り上げソングとしても、ぴったりの1曲です。本楽曲は、カラオケ、着うた®等での配信も開始しております。是非、TV-CMとあわせてお楽しみください。

      ※「着うた」は、株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントの登録商標です。

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    ノコヘリハコヨコクビガメ(鋸縁箱横首亀、Pelusios sinuatus)は、水場を訪れた大型哺乳類に寄生しているダニを食べることもあるそうですね。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%B3%E3%83%98%E3%83%AA%E3%83%8F%E3%82%B3%E3%83%A8%E3%82%B3%E3%82%AF%E3%83%93%E3%82%AC%E3%83%A1)

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