サン=ドニ大聖堂:Basilique de Saint-Denis(フランス・パリ北方郊外)

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Basilique

2013年7月20日放送「世界ふしぎ発見!」(第1282回)は、「アントワネットと石の心臓 知られざる母と子の物語」(ミステリーハンター:野々すみ花さん ※初挑戦)でした。

 

 

1795年6月9日、フランス革命の動乱の真っ只中。

「せめて心臓だけでも・・・」

あまたの悲劇を生んできたタンプル塔(Tour du Temple(Paris Temple))の遺体安置所で、摘出は人知れず行われていました。

その男は遺体から切り取った心臓とともに、姿を消しました。

タンプル塔はフランス最後の王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette、1755-1793年)とその家族が最後に幽閉されていた牢獄です。

男が持ち去った心臓は、一体誰のものだったのでしょうか?

 

その心臓は200年の時を経て、現在はパリ北部の郊外に建つサン・ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis(サン=ドニ大聖堂))に保管されています。

 


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歴代のフランス王族たちが埋葬されてきたサン・ドニ大聖堂は、別名「死者の都」とも呼ばれ、地下にはおよそ1000年に及ぶフランス王家の墓が累々と安置されています。

野々さん「これがその心臓です。干からびて石のように感じます。」心臓は透明な卵形の器の中に保管されています。

この石の心臓は果たして誰のものなのか?

200年以上もの間、フランス最大のミステリーとされてきました。

その謎を解く一冊の古びた本があります。それが「マリー・テレーズ回想録」(1817年初版)です。

著者のマリー・テレーズ(1778-1851年)はフランス革命で惨殺されたアントワネットの家族の中で唯一、1人だけ生き延びた娘であり、家族で過ごした最後の日々を克明に書き残しています。

「私が今までこうして生き残れたのは、母の毅然とした勇気と優しさがあったからです。」(「マリー・テレーズ回想録」)

そして、アントワネットの意外な一面が書かれていました。

野々さん「この本では私のイメージとすごく異なった書かれ方をしているが・・・」

歴史家のフィリップ・ドロルムさん「娘が語る母としてのアントワネットは、これまで伝えられてきた浪費家のお姫様というようなイメージとは全く違うはずです。そしてこの本には、アントワネット一家とあの心臓を結び付ける重要な鍵が隠されているのです。」

今なお、世界中の人々を魅了し続ける王妃マリー・アントワネットですが、彼女はフランス王室を傾かせた悪女(傾国の悪女)、軽薄な人間、浪費家、また悲劇のヒロインなどともいわれます。

持ち去られた心臓と、娘テレーズの告白、DNA鑑定、それら謎のピースが繋がる時、出産、子育て、母と子の別れ・・・、アントワネットの知られざる素顔と、家族で過ごした最後の日々に辿り着くのです。

フランスとベルギーを舞台に、これまでほとんど語られてこなかったアントワネットと2人の子どもたちの愛と涙のドラマに迫ります。

 

マリー・アントワネットは生涯、4人の子どもを授かっています。

長女 マリー・テレーズ

長男 ルイ・ジョセフ(没※)※革命前に幼くして夭逝

次男 ルイ・シャルル(ルイ17世)

空の揺りかごは、生まれてすぐに亡くなった次女のものです。

 

≪子どもたちを通してアントワネットの素顔に迫る≫

パリ祭で賑わう花の都パリ(Paris)

ヴァンドーム広場(Place Vendôme)は世界に名高い高級宝飾店街で、パリの宝石箱と呼ばれます。

アントワネット御用達だった宝石店へ向かいます。

野々すみ花さんは、2009年から昨年(2012年)宝塚歌劇団退団まで、宙組のトップ娘役を務めていました。

パリで最も歴史と権威ある老舗の宝飾店といわれるメレリオ・ディ・メレー(MELLERIO dits MELLER)は、1613年の創業で、今年でちょうど400年を迎えました。

お店の地下書庫には3000冊を超える歴代の顧客名簿とデッサン集が保管されています。

アントワネットもこの店のデザインが気に入り、9代目店主のジャンバティスト・メレリオは専属デザイナーとして王妃の寵愛を受けたのだそうです。

創業400年を記念して製作されたアントワネットモデルが目映い輝きを放っています。

14代目店主のオリヴィエ・メレリオさん「私たちはアントワネットの好みを古い資料から紐解いて現代に再現させました。王妃はピンクのサファイアやパールを使ったリボン、お花のモチーフがお気に入りでした。」

野々さん「ただ豪華なだけではなくて、繊細でさり気ない中にいろいろな綺麗なものが混じっているのが、すごく素敵だと思う。」

時価2000万円というネックレスを試着。

野々さん「私にはもったいないんですけど、アントワネットになった気分がしてきました。」

 

宝石に目がなかったアントワネットでしたが、子どもが生まれてからはさらに珍しい宝物を集め始めたそうです。

オーストリアの名門ハプスブルク家(Haus Habsburg)で生まれたアントワネットが、ヴェルサイユ宮殿(Château de Versailles)へ嫁いだのはわずか14歳の時だったといいます。

結婚相手は長年の宿敵であるフランスの皇太子ルイ=オーギュスト(Louis-Auguste)、後のルイ16世(1754-1793年)で、過去の敵対関係を水に流すための政略結婚でした。

鏡の間へ

野々さん「本当にたくさんの鏡が壁に取り付けられています。」

王の間と王妃の間を繋ぐ鏡の間には300枚以上の鏡が使われているのだそうです。当時、鏡は宝石以上の価値があったといいます。

アントワネットは幼くしてヨーロッパ中の富と権力が集まるヴェルサイユ宮殿に嫁ぎ、その若さと美貌は、彼女を浪費へと駆り立てました。

しかし何よりも彼女に期待されていたことは、世継ぎを産むことでした。

この豪華な宮殿の中で、アントワネットはどんな母親になったのでしょうか?

王妃の寝室へ

総合学芸員のジェラール・マビューユさん「アントワネットは結婚8年目にしてようやく子どもを授かりました。この寝室で第1子のマリー・テレーズを出産したのです。その際には実に200人以上の見学者が王妃の出産を見届けたといわれています。当時、王妃の出産は公式行事でした。子どもが王妃から生まれた正式な世継ぎであることを立証するためにも、証人が必要だったのです。」

出産を人一倍喜んだのは、アントワネットの母でオーストラリアの女帝マリア・テレジア(1717-1780年)でした。彼女からアントワネットへ出産祝いに贈ったものがありました。

王妃の寝室にある隠し扉の向こう側へ

観光客が入れない、国王一家のプライベート空間です。

その一番奥、宝石以上に魅せられた宝物が、ガラスケースに収められていました。


瓢簞
・・・etc

「私たちは『ジャポン』と呼んでいます。」

野々さん「日本の漆器ですね。こんなにたくさんあるんですね。」

蒔絵(まきえ)は漆器に金粉などを貼り付けて文様などを引き立てる日本の伝統的な工芸品で、長崎からオランダ経由で輸入されていたそうです。

繊細で優美な工芸品に王妃はすっかり魅了されたそうです。

中でもお気に入りだったのが「犬」の蒔絵だったそうです。

黒ぶちの犬がしゃがんで座っている姿で、アントワネットは猫だと思っていたそうです。なんとなく三毛猫のような雰囲気です。

野々さん「確かに言われてみると、猫に見えなくもないですね。」

 

こうして長女マリー・テレーズを出産したアントワネットでしたが、王室での子育ては一般の常識とは大きくかけ離れたものでした。

王妃には、子育てだけで100人近くの侍女が仕えていたそうです。

乳母、歯科医、ヘアデザイナー、医者、教育係、洗濯係、給仕係、銀器磨き係、案内係、家具職人、・・・中には、揺りかごを揺らすだけのゆりかご係もいました。それだけで当時の一般市民の平均年収の4倍の給料が支払われていたそうです。

総合学芸員のジェラール・マビューユさん「ヴェルサイユにおいて子育ては国家の仕事でした。アントワネットの仕事は子どもを産んだ時点で終わっていると言えるでしょう。彼女は子どもの寝顔を見ることすら、簡単ではなかったはずです。」

自分流の子育てがしたくなったアントワネットはヴェルサイユの敷地の一角に、子育てのための楽園を作り出しました。それがル・アモー(Le Hameau)と呼ばれる理想の村です。自然のままに見える景色は全部アントワネットが人工的に作らせたものです。

 


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ル・アモーは莫大な建設費を投じて4年の歳月を掛けて完成しました。

「ここにいるときだけ私は本当の私でいられるの」

自然溢れる環境の中で、王妃は自ら農夫の格好をして野菜を育てたり、牛の乳を搾ってチーズを作ったりしながら子育てを楽しんだといいます。

長女マリー・テレーズの出産から6年後、1785年に弟のルイ・シャルル(ルイ17世)が誕生しました。

ブルーの瞳の自分によく似た男の子をアントワネットは「シュー・ダムール(chou d’amour)」(愛するキャベツちゃん)と呼んでとりわけ可愛がりました。フランスでは「男の子はキャベツ畑から生まれる」という言い伝えがあるそうです。

庭園にはシャルル専用のお花畑があり、彼は毎日自分で摘んだ花を母親に届けていたといいます。

フランスの農村風景をめぐるツアーについてはこちらの記事も参照ください。

 

当時のフランスは不作が続いて、国民は明日のパンすら買えずに貧困に喘いでいました。

重税に苦しむ本当の農民から見たら、ル・アモーで農民の真似事を楽しむ王妃は憎むべき存在でしかありませんでした。

反王政派の革命派が書いた当時の新聞(フランス国立図書館蔵)

「王妃の別荘はダイヤとサファイアで飾られている」

「王妃はオーストリアのスパイ」

「赤字夫人!」

この頃、街には王妃を批判する新聞やビラが飛び交っていました。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」そんな言葉がまことしやかに吹聴されたのも、この頃のことでした。

そして遂に民衆の不満が爆発し、1789年にフランス革命が勃発しました。

この時、アントワネットは34歳、一家はヴェルサイユ宮殿を去り、牢獄タンプル塔に身を落とすことになりました。

 

ル・アモーの隣にある王妃の別荘トリアノン(Trianon)には、アントワネットが子どもたちと楽しむために特別に作らせたあるものがあります。それは元々、軍事訓練に使われていたものであるそうです。

 


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【Question 1】
アントワネットが子どものために別荘に作らせたものとは?
→回転木馬(フランス語ではカルーセル(carrousel)、英語ではmerry-go-round)

回転木馬は元々、十字軍が軍事教練用としてアラブから取り入れたものでした。

その後次第に王室の婚礼などに使われ始め、遊具として広まっていきました。

アントワネットの回転木馬があった場所は現在円形の芝生で、中央に1本の木が植えられています。中国風のメリーゴーラウンドで、当時は孔雀(クジャク)や竜が回っていたそうです。

 


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フランス革命が起こってからアントワネットが処刑されるまで、4年という時間がありました。

1789年 パリに連行

1791年 ヴァレンヌ逃亡

1792年 タンプル塔に幽閉

1793年 マリー・アントワネット処刑

タンプル塔に幽閉されていた時期については、これまで余り注目されてきませんでしたが、実はそこに、知られざる彼女の素顔がありました。

≪幽閉されたアントワネットと家族の生活とは?≫

かつてのタンプル塔跡地は現在、タンプル塔公園(Square Du Temple(Square Municipal))に変わって、パリ市民の憩いの場所になっています。

 

1808年に取り壊されたという牢獄タンプル塔の姿はどのような感じだったのでしょうか?

パリ歴史博物館(Musée de l’Histoire de Paris、カルナヴァレ博物館(Musée Carnavalet)、カルナヴァレ美術館とも呼ばれる)に展示されているジオラマ「1792年当時のパリの街並みを再現したミニチュア模型」で、その雰囲気を垣間見ることができます。また革命当時の絵画などにもその姿が残されています。

学芸員のフィリップ・ド・カルボニエールさん「タンプル塔は12世紀に造られた石造りの要塞です。壁の厚さは3mもあり、部屋の扉は8ヵ所も施錠されていました。一家は塔の3階、8m四方ほどの空間で暮らしていました。」

タンプル塔のアントワネット最後の肖像画(当時37歳)と呼ばれる絵では、彼女は修道女のような服装に身を包んでいます。かつての華やかな王妃の面影はすっかりなくなってしまったような感じがします。

 


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フランス国立図書館へ

タンプル塔で一家に何があったのでしょうか?

謎に包まれたタンプル塔での一家の暮らしを知ることのできる貴重な手掛かりが残されています。「マリー・テレーズ回想録」(1817年初版)です。

革命を生き延びた長女マリー・テレーズはこの本の中で、当時の一家の様子を詳しく書き残しています。

「1792年8月13日、私たち家族はタンプル塔に収容されました。当時、私は13歳、シャルルは7歳でした。囚われの身ではありましたが、ここでは家族が一日一緒に過ごすことができました。毎日、決められた時間に家族揃って食事を取り、その後は、父がシャルルに勉強を、母が私に刺繍を教えてくれました。夕食後は皆で双六やトランプをしてからベッドに入るのが日課でした。」(「マリー・テレーズ回想録」)

(タンプル塔で国王一家が遊んだ玩具)

当時家族が遊んだとされる双六やチェスなどが残されています。これを見る限りのどかな家族の風景のように思えますが、実際は監視の目を盗んで会話をするためにゲームをする振りをしていた、とテレーズは書き残しています。

(チョウをイメージしたアントワネットの刺繍)

(シャルルの勉強ノート)

革命によって王妃から囚人へと身分が180度変わってしまったアントワネット。彼女が収容されていたタンプル塔は200人を超える番兵によって厳しく見張られていたそうです。もはや王妃としての敬意を払われず、呼び捨てにされていたといいます。

監獄に閉じ込められたアントワネットの心の拠り所は2人の子どもたちでした。

そんな母と子を繋ぐものが残されています。

音楽の才能豊かだったアントワネットは自ら作曲を行っていました。彼女自身が作詞作曲したとされる曲が今に伝えられています。

(アントワネットが作曲したとされる曲の楽譜(フランス国立図書館 蔵))

野々さん「恥ずかしながらアントワネットになったつもりで歌わせてもらいました。タイトルは、A ma fille(ア・マ・フィーユ(わが娘へ))。子守歌なんですね・・・」

「アマフィーユ(我が娘へ):産着にそっと包まれて まるで天使の羽が生えているみたい お前の行く末を思い描くわ 金髪の小さなわが子よ 眠っているお前には 危険に立ち向かおうにも 微笑みと涙の他には なんの武器もないのね 無垢で愛らしい わたしの宝物 神様がお前の眠りに お恵みをくださいますように」

王宮の世界しか知らなかったアントワネットに、暗い牢獄の中で母親としての強い自覚が芽生えていったのでした。

ベルサイユ時代とはまるで違う暮らしでしたが、彼女たちはタンプル塔で初めて本当の家族になれたのかもしれません。

しかし、家族が揃って暮らすことができた時間はわずか5ヵ月のことでした。

国王の処遇をめぐって行われてきた裁判の判決が下されたのです。1793年1月21日、ルイ16世が処刑されました。

革命はさらに激化して、1年間で反革命派4万人が処刑されました。

「この頃、弟は脇腹の痛みと熱を伴う頭痛を訴えるようになりました。母は夜通し看病しました。活発だった弟は慣れない牢獄生活で次第に病気がちになっていきました。」(「マリー・テレーズ回想録」)

今は残っていませんが、タンプル塔の壁には、こんな数字が残されていたといいます。「1793年3月27日 3pied 2pouce※」(※およそ98cm)これはアントワネットが子どもの成長を記録したものです。子どもが健康に成長することだけが彼女の願いでした。

「私の唯一の希望は子どもが幸せになれることです。とても悲しい時、幼い子どもを抱き締め、心を込めてキスをします。そうすると何よりも心が慰められるのです。」(アントワネットが友人へ送った手紙より)

しかしこの慎ましい暮らしも奪われることになります。

「革命政府はルイ・シャルルを我々の元で育てることに決めた」

ルイ・シャルルは連行されて行きました。

「誇り高く強い母がこの時ばかりは取り乱し、ずっと泣き続けました。弟は塔の別室に幽閉されたのです。それ以降、私たちは二度とシャルルと会うことはできませんでした。」(「マリー・テレーズ回想録」)

シャルルと引き離された1ヵ月後、アントワネットはタンプル塔から「死への通路」と呼ばれるコンシェルジュリー(Conciergerie(監獄))へと移されました。

 


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革命裁判所の判決を経て、国家反逆罪での死刑が決まりました。1793年10月16日、マリー・アントワネットは処刑されました。38年の生涯でした。

シャルルにはアントワネットの死が伝えられることはありませんでした。

母の亡き後もタンプル塔の中庭で花を摘んではアントワネットの牢獄の前に置いていたという番兵の記録が残されているそうです。

 

大沢あかねさん「アントワネットは傲慢でワガママというイメージを持っていたのに、本当に子どもの幸せを願う普通のお母さんだったんだなと、びっくりしています。」

 

シャルルと父親のルイ16世の絆を感じるエピソードがあります。

ルイ16世が子どもたちの勉強のために特別に作らせた教材が残っています。

それはタンプル塔の中にも持ち込まれ、それを使ってルイ16世は息子のシャルルに勉強を教えていたといいます。

 

【Question 2】
幽閉中のルイ16世が息子の勉強のために作った教材とは?
→地球儀

世界の大きさを知るのも王の務め。

高さ2m60cmもある巨大な地球儀がベルサイユ宮殿の皇太子の部屋に残されています。

1788年にルイ16世が息子のために当時の英知を結集させて製作させたもので、蓋の中身が天体図になっているというこだわりようです。

無能と言われてきたルイ16世ですが、実は地理や理数系が得意でした。

タンプル塔に収容された後も国王教育に欠かせない地理を地球儀を使って教えていたのだそうです。

 

 

≪2人の子どもたちの運命は?≫

手記を残した長女マリー・テレーズ(1778-1851年)はタンプル塔を出た後、亡命生活を送りながら72歳まで生き、天寿を全うしました。

ルイ・シャルルは、その後1793年にタンプル塔内で即位し、ルイ17世と呼ばれるようになったといいます。

 

アントワネットの処刑から1年半後、ルイ17世はタンプル塔の独房でわずか10歳にして病死したといわれています。

果たしてそれは真実なのでしょうか?

「マリー・テレーズ回想録」においても弟の行方は謎のままとされています。

サントマルグリッド教会(Eglise Catholique Sainte-Marguerite(サントマルグリット教会))

 


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ルイ17世の墓が、当時の共同墓地だった場所、サントマルグリッド教会にひっそりと残されています。

小さな十字架に「L ⅩⅦ 1785-1795」、墓石には「attendite et videte si est dolor sicut dolor meus」と刻まれています。

野々さん「王族の墓にしては少し質素な気もしますね」

でも実は、埋葬されたはずの遺体はこの場所からは見つからなかったのでした。

人知れず亡くなった皇太子の最期を確認するため、当時の共同墓地跡では何度も発掘調査が行われましたが、ルイ17世と思われる遺体が発見されることはありませんでした。(1894年に行われた発掘調査の写真ではテーブルの上に骸骨と人骨の塊が置かれている)

そのため、ある憶測が飛び交うことになります。タンプル塔で死んだ少年は身代わりで、ルイ17世は無事に脱出したのではないか?謎が謎を呼び、フランス中がこのミステリーに夢中になりました。

ルイ17世はどうなったのか?その謎を解き明かそうとこれまでおよそ800冊以上の本が出版されたといいます。例えば、マーク・トウェイン(Mark Twain)の「ハックルベリー・フィンの冒険」(Adventures of Huckleberry Finn)にもルイ17世が登場します。「おまえさんの目にうつっているのは、ルイ16世とマリーアントワネットの遺児にしてあわれ行方知れずとなりし皇太子ルイ17世じゃ!」(岩波書店 西田実訳)ミステリーは海を越えてアメリカまで届いていたのですね。

これまで出版された書物全てに目を通すなど、40年間この謎を追い続けてきた歴史家を訪ねました。

野々さん「なぜ200年もの間、ルイ17世の謎は解明されなかったのですか?」

歴史家のフィリップ・ドロルムさん「タンプル塔で亡くなった少年がルイ17世だという証拠がどこにもないからです。そのため、我こそはルイ17世だと名乗る人物がその後、実に100人以上も登場したほどです。そこで私はあるものに注目しました。それがあの石の心臓です。あれはタンプル塔で死んだ少年を検死した医者が持ち帰ったものなのです。」

検死医のペルタンはタンプル塔で死んだ少年の遺体からこっそりと心臓を抜き出して持ち帰ったといいます。

当時、高貴な人の遺体には聖なる力が宿るとされ、特に心臓はその人そのものを表すと思われていました。

その後、心臓はフランス革命、7月革命、第一次世界大戦、第二次世界大戦を乗り越えて、盗まれたり発見されたりを繰り返しながら、フランスからイタリア、オーストリアからドイツ、スペイン・・・とヨーロッパ中を旅したといいます。

心臓の謎はどのようにして解いていったのでしょうか?

フィリップ・ドロルムさん「(長年の謎の答えを求めて)私はこの石化した心臓をベルギーの名高い科学者に託したのです。」

ルイ17世の最期の謎に迫る唯一の手掛かりであるタンプル塔の心臓は、果たして誰のものなのか?

その謎の答えを突き止めるために、ベルギーへと向かいました。

中世から続くヨーロッパ随一の学術都市である古都ルーヴェン(Louvain)、歴史あるルーヴェン カトリック大学に心臓の謎を託された科学者がいるといいます。

ルーヴェン カトリック大学の名誉教授であるジャン=ジャック・カシマン(J.-J.Cassiman)さんは遺伝子学の世界的な権威です。数々の難問を遺伝子の力で解決してきたことからMr.DNAと呼ばれます。

(Lot van Lodewijk ⅩⅦ opgehelderd DNA beslecht het pleit in historishe controverse)

カシマン名誉教授「心臓からDNAを抽出したのです。硬くなった心臓の一部をノコギリで切断し、ハンマーで粉々に破砕して、そこからDNAを取り出したのです。こうやって1cmほど切り取ったんです。余りにも古く、余りにも硬かったので、鑑定に耐えるDNAが残っていないのではと危惧しましたが、幸運にも一部のミトコンドリアDNAを採取することができました。」

心臓のDNAを抽出することに成功したカシマン名誉教授は、アントワネットの母であるマリア・テレジアが持っていたロザリオに彼女の子ども16人分の遺髪が保存されていることを知り、DNA鑑定を行いました。その結果、200年にも及ぶフランス最大のミステリーに遂に決着が付くことになりました。(資料提供:J.-J.Cassiman)

2000年4月19日「Twee eeuwen mysterie rond “enfant du Temple”(200年の謎に終止符)」

タンプル塔の心臓のDNAは「アントワネットにとても近い家族のものである」と証明されました。

カシマン名誉教授「100パーセントではありません。でもあらゆる状況から考えて、タンプル塔から持ち去られたあの石の心臓は99パーセント、ルイ17世のものであることに間違いありません。」

そう、アントワネットが愛した息子シャルルは、タンプル塔で一人亡くなっていたのでした。

 

パリ郊外に建つサン・ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis(サン=ドニ大聖堂))

2004年6月8日、ルイ17世と確定された心臓は、長い時の旅路を経て、やっと歴代のフランス王たちが眠るサン・ドニ大聖堂に辿り着いたのでした。

「Louis ⅩⅦ roi de France et de Navarre」

「この心臓は戦争や革命を経て、世界中で亡くなっている罪のない子どもを象徴するものです」(サン・ドニ大聖堂 僧侶の言葉より)

ルイ17世の隣には最愛の母アントワネットと父ルイ16世が埋葬されています。200年の時を経てようやく、また親子が一緒になれたんですね。

 

タンプル塔の独房に幽閉されたルイ17世を元気づけるため、アントワネット一家に同情的だった看守があるものを差し入れたそうです。それは当時の王侯貴族の間ではステータスとされてきたものです。

 

【Question 3】
タンプル塔の看守がルイ17世にプレゼントしたものとは?
→犬

タンプル塔で孤独な暮らしをしていたルイ17世のもとに連れてこられたのは「ココ」という名前の犬でした。

(ルイ17世が飼っていた犬「ココ」が描かれた絵)

当時の貴族にとって犬を飼うことはステータスとされ、アントワネットも何匹もの犬を飼っていたといいます。

そのタンプル塔でアントワネット一家に飼われていた犬の墓、その小さな墓碑には「COCO」と刻まれています。ココのお墓は、政府の施設(国家改革 地方分権公務省)内にある芝生が生えた庭の中に残されていて、今でも大切に保存されています。

 

 

黒柳徹子さんがパーフェクト賞を達成!

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    伊勢丹新宿店 本館1階 = ザ・ステージ にて 2015年 5月20日(水)~ 5月26日限定発売。

    ナショナルデパート株式会社(本社:岡山県岡山市北区 代表取締役:秀島康右)は、株式会社 SPECIAL PRODUCT DESIGN (代表取締役 小濱勇人)が創立するライフスタイルブランド「ROSA COMTESSE」(ロザ コンテス)とのコラボレーション商品として、「女王製菓」から『パンがないならフィナンシェを食べればいいじゃない!』を、伊勢丹新宿店 本館1階 = ザ・ステージにて2015年 5月20日(水)より限定発売いたします。
    フィナンシェ(6個入り)漫画ポストカード付き ¥1,620- (税込)
    販売期間2015年 5月20日(水)~ 5月26日。

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    18世紀フランスを体現するヴェルサイユやマリー・アントワネットにインスピレーションを受けたライフスタイルブランド「ROSA COMTESSE」(ロザコンテス)と、マリー・アントワネットとその運命や時代背景にインスピレーションを受けた「女王製菓」がコラボレーション。

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    女王製菓 とは?

    2006年に発表。全57話からなる菓子にまつわる物語を、漫画風イラストと小説パートで構成し、物語中に登場する菓子とセットにして販売するという、今までになかったスタイルの菓子ブランド。現在までに13話まで発表されているが、著者である秀島康右氏の多忙により断筆を余儀なくされた悲運のお菓子。
    物語中に必ず登場する「パンが無ければ◯◯を食べればいいじゃない!」が決め台詞で、これは王妃マリー・アントワネットの「Qu’ils mangent de la brioche.」(ではブリオシュ〔パン菓子〕を食べるがよい)という逸話を元にしている。2014年には念願であったマリー・アントワネットのお膝元、パリの老舗百貨店 ル・ボン・マルシェ (Le Bon Marché)で販売された。

    女王製菓第一話「夜の静寂に妖しく香る赤い薔薇」OP
    (https://youtu.be/bmAbWwA6SIU)

    ROSA COMTESSE(ロザ コンテス)

    ヴェルサイユ宮殿お墨付き、ヴェルサイユ宮殿と18世紀フランスをコンセプトにした ライフスタイルブランド
    18世紀フランスを体現するヴェルサイユやマリー・アントワネットにインスピレーションを受けた テキスタイル生地、また オリジナルテキスタイルを用いた バッグ や ポーチ、ステーショナリー 等を中心に展開する。
    クリエイティブディレクターを、ヴェルサイユ在住、シャネルパルファン&ボーテ及びブルジョワ社の文化事業責任者も務める等、香りのエキスパートであり、ヴェルサイユ宮殿及び18世紀フランス文化の専門家でもあるエリザベット・ドゥ・フェドー (ELISABETH DE FEYDEAU)氏が務める。http://www.rosacomtesse.com

    販売時期: 2015年5月20日(水)~ 5月26日(火)
    取扱い店舗: 伊勢丹新宿店 本館1階 = ザ・ステージ
    〒160-0022 東京都新宿区新宿3-14-1

     

    【ナショナルデパートのあゆみ】
    2002年創業。ひとつが5kgのパン、「グランパーニュ」は、NY発祥のグロッサリー DEAN & DELUCAの日本国内などで取り扱われている。
    2006年:女王製菓を発表。
    2011年:TSUTAYA 電子書籍サービスにて絵本を出版。手作りお菓子キットと絵本をセットにした「リーブル・ディマージュ 」をTSUTAYA店舗にて発売。
    2012年:全てのプロダクトの企画デザインを担当する代表の秀島康右初の著作『ナショナルデパートの「四季のカンパーニュ」とライ麦のパン』 (マイナビ社)が出版される。
    2013年:おみやげ菓子『ももたん』を発売し、郵便ポストとのコラボレーション「ゆうびんももたん」(日本郵便株式会社)や、東京駅復原一周年記念の「とうきょうももたん」(東日本旅客鉄道株式会社) などのコラボレーションを展開。
    2014年:フランス・パリの老舗百貨店 Le Bon Marché (ル・ボン・マルシェ)で開催された大規模な日本展では食品館のショウウィンドウを飾るなど、ファッション業界や海外のクリエーターからも注目されている。
    2015年:神具や仏具からインスピレーションを受けたインテリア・アパレルブランド「KITOKAMI」を発表。備前国総社宮(岡山市中区)にて行われた 拝殿竣工祭において、プロジェクションマッピングを奉納。アートディレクションや一部映像制作を担当。

    【ナショナルデパート株式会社について】
    会社名: ナショナルデパート株式会社
    代表者: 代表取締役 秀島 康右
    設 立: 2007年9月
    事業内容: 食品、インテリア用品、生活雑貨、服飾雑貨の企画・製造・販売。
    所 在 地: 〒700-0814 岡山県岡山市北区天神町9番2号
    電話番号: 086-226-6224(FAX共通)
    URL http://depa.jp/
    Facebook https://www.facebook.com/nationaldepart/
    Twitter https://twitter.com/nationaldepart

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    1974年のこの日、宝塚歌劇で「ベルサイユのばら」が初演されたことから、8月29日は“ベルばらの日”なのだそうです。
    姉が宝塚好きだったので、それをきっかけに私も池田理代子さんの少女漫画「ベルサイユのばら」にはまったのですが・・
    なんと先月、ベルばら最新刊が発行されていました。
    あぁ、気になる! でも私が持っているのは文庫版・・
    買うべきか買わざるべきか・・、そこが悩みどころです。

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