パムッカレ

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Pamukkale

2013年2月24日放送「THE 世界遺産」は、「地の果てに!驚異のローマ文明 ~ 大ローマ帝国II(スペイン、チュニジア他)」でした。

 

 

古代ローマ帝国は2世紀にその領土を最大化させ、地中海世界を丸ごと支配していました。

サハラ砂漠の玄関口、北アフリカのチュニジア南部、ザグーアンには古代ローマ時代の水道橋が今も残っています。

 

 

≪西の果て≫

ヘラクレスの塔は、紀元1世紀にスペインの大西洋岸の岬に建てられた世界最古の灯台です。

 

Tower_of_Hercules

 

地中海と西ヨーロッパを繋ぐ航路を照らすため、またここまでが帝国の領土であるという印の意味を込めて、西の陸地の果てであり「世界が終わるところ」とされたこの海辺に、建てられたとされます。

石造りのヘラクレスの塔は、夜になると明かりが灯り、大西洋を往く船を導いています。

灯台のライトの部分は後に増築されて、現在の高さ55mの壮観を残していて、今もなお現役で、海に光を投げ続けています。

塔の壁を見ると、形の違う切石がパズルのピースのようにしっかりと組み上げられた強靱な造りをしていて、古代ローマ時代の建築技術の高さが一目瞭然です。

 

スペインの北西部レオンの名産品の一つであるセシーナと呼ばれる牛肉の塩漬けも古代ローマ時代に伝えられた保存食です。

ラス・メドゥラスに残る奇岩の群れは、金を取り尽くした跡で、元々は一つの山でしたが、それを水力を利用して丸ごと山を粉砕したのだそうです。

山の中に坑道を掘りめぐらせた後、山頂から大量の水を流し込むことで「山崩し」を行い、大量に流れ出した土砂の中から砂金を採ったそうです。

 

 

≪北の果て≫

古代ローマ時代はライン川とドナウ川を北限として、「川」も自然の国境としていました。

ドイツ・トリーアのローマ遺跡群は、北方の守りとして築かれたといいます。

ポルタ・ネグラ(黒い城門)などが残っています。

 

ライン渓谷にはブドウ畑が広がります。

ブドウ栽培の北限とされるライン地方にブドウ栽培を広めたのも古代ローマでした。

イタリア・ポンペイ遺跡には居酒屋でワインの杯を酌み交わす姿を描いた2000年前の壁画が残されています。

今やライン地方はドイツワイン、特に白ワインの大産地となっています。

 

 

≪南の果て≫

北アフリカ、ここでは南はサハラ砂漠が国境となり、サハラ砂漠から北側の地中海との間が領土になっていました。

3世紀、チュニジアの小さな街にエル・ジェムの円形闘技場が造られました。

剣闘士(グラディエーター)とライオンなどの猛獣が命をかけた死闘を戦った場所です。

ローマのコロッセオ(Colosseo)、ベローナのアレーナ・ディ・ヴェローナ(Arena di Verona)に次ぐ、世界で3番目に大きな円形闘技場といわれるそうです。

剣闘士とライオンは地下通路で出番を待ちました。

猛獣を入れる檻にはエサや水を入れた台が残っています。

剣闘士の控室もあります。剣闘士は捕虜や死刑囚だったそうです。

娯楽を広めただけではなく、食文化もまた広められました。

エル・ジェムの街は小麦とオリーブを代表とする豊かな穀倉地帯で、古代ローマの穀物蔵ともいわれ、大量の小麦やオリーブが船でローマに送られていたといいます。

一面に広がるオリーブ畑の風景、そのオリーブ栽培を広めたのは古代ローマでした。

オリーブ栽培は今も盛んに行われており、世界各国に向けてオリーブオイルが輸出されています。

かつては棒で枝を叩いて収穫していたそうですが、大規模なオリーブ農園では機械化が進み、今では巨大なトラクターがオリーブの木をすっぽりと包み込み、枝から実をはたき落としながら進むことで収穫が行われています。

 

チュニジア南部にある山村のシェニニ村には現在は砂漠の民ベルベル人が暮らしていて、今も昔ながらの伝統的な方法でオリーブの搾油が行われています。

この村一番の働き者はラクダで、ラクダが石臼の回りをぐるぐると時計回りに歩くことでラクダの背中に括り付けられた軸が回転する仕組みになっていて、転がされた石臼に挽かれてオリーブの実がすりつぶされ、オイルが絞り出されます。

古代ローマ時代に油といえば、このオリーブオイルだけでした。

古代ローマ時代は最も幸福な時代だったとされ、観衆35000人収容の巨大円形闘技場にも代表される娯楽や豊かな食文化が帝国中に広められ、人々がそれらを享受していたとされます。

 

 

≪東の果て≫

遠目にはまるで山肌に白い雪が降り積もっているかのような光景が広がるのは、トルコのヒエラポリス−パムッカレです。

Pamukkale_Denizli_Turkey

パムッカレには真っ白い段々畑のような階段状をした石灰棚が広がっています。

地面から湧き出た石灰の成分を含む温泉水が山肌を流れ落ちていて、長い年月をかけた浸食作用によってできあがったそうです。

パムッカレは古代から続く温泉保養地であり、ローマの皇帝も足を運んだとされる温泉郷です。

現在も温泉が湧いていて、その温泉浴場のお湯の水底には、崩れた石柱が無造作に横たわっていますが、それは地震で倒壊したローマ神殿の遺跡なのだそうです。

また、ヒエラポリス遺跡には商店や劇場の跡が残っています。

 

 

東の果てに広がる砂の海、中東シリア砂漠の真ん中に位置するオアシス都市が、シリアのパルミラの遺跡です。

パルミラはシルクロード貿易の中継地点として2世紀をピークに繁栄しました。

キャラバン隊を迎える大きな門、列柱道路が残されています。

中国の絹、インドのスパイスを求めた隊商から通行税を取っていました。

首飾りや腕飾りなど豪華な装飾品をふんだんに身に着けた婦人胸像の姿からは、当時のパルミラの繁栄の様子が物語られます。

 

 

≪北の果て≫

英国の原野にはローマ帝国の国境界線/ハドリアヌスの長城などが残されています。

古代ローマ帝国は、北の果てであるイギリスにも全長118kmにもわたる城壁を作ったのでした。

それは、もうこれ以上、領土は広げないという印でもあったそうです。

 

 

古代ローマは最果ての地までも領土を広げ、彼らの持つ進んだ文明の種を伝えていきました。

それは各地の固有・土着の文化と溶け合いながら、現代文明の血となり肉となり、礎となっていきました。

すべての道はローマに通ずという言葉通り、私たちの生きる道もまたローマに通じています。

 

 

 

アクセス:

スペイン王国
ヘラクレスの塔(Tower of Hercules)
ラス・メドゥラス(Las Medulas)

ドイツ連邦共和国
トリーアのローマ遺跡群(Roman Monuments)

イタリア共和国
ポンペイ(Archaeological Areas of Pompei, Herculaneum, and Torre Annunziata)
アレーナ・ディ・ヴェローナ(ヴェローナの市街:City of Verona)

チュニジア共和国
エル・ジェムの円形闘技場(Amphitheatre of El Jem)

トルコ共和国
ヒエラポリスとパムッカレ(Hierapolis-Pamukkale)

シリア・アラブ共和国
パルミラの遺跡(Site of Palmyra)

英国イングランド
ローマ帝国の国境界線(Frontiers of the Roman Empire)

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コメント

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    真理は一つ、という意味に解釈できる、フランスの詩人、ラ・フォンテーヌの言葉といえば、「すべての道はどこに通ず」でしょう?
    正解は「ローマ」です。
    ローマ帝国の全盛期には世界各地からの道がローマに通じていました。異なる手段を講じても目的は同じである、という意味で使われる言葉です。

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    よく似た名前のアフリカの国、ナイジェリアとアルジェリアがともに陸地で接している唯一の国といえばどこでしょう?
    正解は「ニジェール」です。
    北をアルジェリア、南をナイジェリアにはさまれる形で国土があります。国名は「ニジェール川」に由来しますが、隣の「ナイジェリア」という国名もこの川に由来します。

  1. 2013年 2月 24日

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