村山口登山道(むらやまぐちとざんどう):富士最古の登山ルート「村山道」

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2013年9月7日放送「世界ふしぎ発見!」(第1287回)は、「世界文化遺産登録記念!外国人初!幕末のFUJIYAMA登山」(ミステリーハンター:中田あすみさん、渡部陽一さん)でした。

 

 

2013年6月、富士山が世界文化遺産に登録されました。日本が誇る富士山が世界のFujiyamaになったのです。

その影響もあって今年は外国人の登山者も急増しています。どうして富士山に登ろうと思ったのか、尋ねてみると、

フランス人男性「日本人は人生で一度は富士山に登ると聞きました。そんな伝説的な山に登りたいと思ったのです。」

アメリカ人女性「富士山は外国人にとって憧れの山。」登り終えてみての感想を訊くと「二度と登りたくないわ。」

今では誰でも登ることができる富士山ですが、かつて外国人が登ることは許されませんでした。富士山は日本人にとって最も神聖な山であり、信仰の対象だったからです。

山開きの神事(富士吉田市の北口本宮冨士浅間神社)

しかし、今から150年前、周囲の反対を押し切り、外国人として初めて富士山に登った人物がいました。

英国のタイムズ紙(Times)1860年11月29日(木曜日)刊によると、日本の聖なる山「Fusi-Jama」に「Mr. Alcock」が外国人として初めて登頂したと報じています。

時は江戸時代末期、幕末の日本、1859年に来日した初代駐日英国公使のラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock、1809-1897年)[横浜開港資料館所蔵]は、開国間もない日本に送り込まれたエリート外交官でした。

そんな一国の公使がなぜ富士山に登らなければならなかったのでしょうか?

その謎に迫るのは戦場カメラマンの渡部陽一さんです。

「田子の浦ゆ うち出でてみれば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」

渡部さんは静岡県富士市田子の浦出身で、2011年から富士市観光親善大使を務めています。(富士市観光親善大使委嘱状交付式)

今回はオールコックの足跡を追って、150年前に彼が辿ったとされる幻の登山ルートから富士山頂を目指します。

幕末、オールコックが辿った道とはどんな道だったのでしょうか。特別な許可を得て、未知なる富士の世界へ足を踏み入れました。

渡部さんがしみじみと呟きます「時をかけることができますね・・・」

 

中田あすみさんは英国ロンドンでオールコックがFujiyamaに登った謎を探ります。

外国人による前代未聞の富士登山の真相に迫るとき、日本史の新事実が見えてきます。この富士登山は日本の運命をも変えていたのです。

富士山(Mt. Fuji)、ロンドン(London)の2元レポートです。

オールコックの富士登山の足跡を辿る時、知られざる富士山の姿と、幕末に隠された意外な物語が明らかになります。

 

涼しげな富士山がスタジオに登場。

氷彫刻の元世界チャンピオンで帝国ホテル専属の氷彫刻職人の平田謙三さんの作品です。

底辺2m、高さ75cm、重さ400kg、何時間もかけて製作された氷の富士山です。

野口健さん「野々村さんがご家族で富士山の清掃登山に参加してくださった。子どもの頃から清掃登山をしていくと、感覚で覚えていく。子ども連れで参加してくれるというのは、(彼も)たまにはいいことするんだなと思った。」

草野仁さん「この番組は28年目になりますが、(野々村さんが)ゲストの方々から褒められたのは初めてですね。」

野口さん「形の美しさがある。世界中の山を登って帰ってきてあらためて思うのが、この左右対称のあれだけ美しい山は世界にはないというのと、4000m弱でありながら眼下に海があるというは世界にそうはないです。清掃活動を通して、日本人は実は富士山が好きだったんだなと。」

 

≪幕末、外国人が富士山に登ることの意味とは?≫

富士吉田口5合目

今年の夏、富士山には過去最高の登山者が訪れた。(←過去最高ではない)

現在の山頂へのルートは、吉田口、須走口、御殿場口、富士宮口の4つですが、およそ150年前に初代駐日英国公使オールコックが登ったルートはそのいずれでもありませんでした。では、いったいどこから登ったのでしょうか。それを知る手掛かりが、ロンドンの王立地理学会に残されています。

中田さん「すごい古い地図ですね」

オールコックが富士登山時に書き写したこの地図は、旅の道中で買った油紙製の雨合羽に描かれています。(on a paper rain cloak)江戸を出発後、東海道を通って富士山を目指していたようです。登り始める前に最後に立ち寄った場所は「Murayama(村山)」と記されています。

 

地図に残された地名を手掛かりに渡部さんがやって来たのは、富士宮市にある村山浅間神社です。世界遺産の構成要素としても登録され、かつて富士信仰の中心地として栄えた場所です。

「初代駐日英国公使ラザフォード・オールコック 富士登山150周年記念碑」と彫られた石碑が建てられています。(2010年7月1日建立 富士宮市長 小室直義 駐日英国大使 David Warren)初代駐日英国公使ラザフォード・オールコック以下総勢8名の英国人一行は1860年9月9日

外国人最初の富士登山者ラザフォード・オールコック卿を讃えて(市制五十周年記念植樹)

日英親善交流会十周年記念

渡部さん「やっぱりここから登って行かれてるんですね」

 


大きな地図で見る

 

 

なぜ一国の公使であるオールコックが富士山に登ろうと思ったのでしょうか。

1809年にロンドン郊外で医者の子として生まれた彼は、31歳の時に英国外務省に入省しました。15年間の中国領事を経て1859年、開国直後の日本へとやって来ました。

第14代将軍 徳川家茂に謁見するオールコック

当時住んでいた東京高輪の東禅寺(長崎大学付属図書館所蔵)

黒船来航(1853年)[横浜開港資料館所蔵]

当時の日本は諸外国から開港を迫られ、世論も開国派と外国人を追い払おうとする攘夷派とに分かれていました。幕府は攘夷派を刺激することを恐れて、外国人を特定の居住区へ押し込める政策を執っていました。横浜居留地[横浜開港資料館所蔵]

そんな折、オールコックは幕府に驚くべき申し出を行いました。「私は富士山に登るつもりだ」

幕府の役人「山に亀裂が入り、登山者を呑み込んでいるとの知らせが入っている。今は登らない方が賢明。」

この年、開国を推進する大老 井伊直弼が桜田門外で攘夷派の浪士に暗殺される事件が起きていました(桜田門外の変)。[豪徳寺所蔵]そんな不安定な状況の中で、一国の公使が日本人にとって最も神聖な山「富士山」に登るなどあってはならないことでした。

しかしオールコックは諦めませんでした。彼にはどうしても富士山に登りたい理由がありました。

オールコックの想い

彼が日本滞在中の出来事をまとめた著書「大君の都(たいくんのみやこ)」(Alcock The Capital of the Tycoon R.G.S. 1863年刊)には、こう記されています。「本当に私たち外国人は嫌われているのだろうか? その実態を江戸から離れた場所で確かめたい。」(I wished to have the opportunity of judging whether the excitement and hostility towards foreigners, in consequence of the newly-contracted foreign relations, and departure from the ancient policy of seclusion and isolation, did or did not・・・)

オールコックは富士山への旅行を通して日本の本当の姿を見たいと思ったのでした。

 

江戸幕府の猛反対を押し切ってまで富士登山を敢行しようとしたオールコックとは、一体どのような人物だったのでしょうか。

ロンドン郊外

オールコックの伝記を執筆したヒュー・コータッチさん(89歳)を訪ねました。ヒュー・コータッチさんはかつて4年ほど日本に赴任していた元駐日英国大使(在任期間1980-1984年)です。

コータッチさん「彼はとても勇敢な男だったと聞いています。たとえ富士登山によって身を危険に晒されようとも、それで諦めるような男ではないのです。幕府の官僚が止めれば止めるほど、彼の富士山への思いは強まっていったのだと思います。」

 

1860年9月、遂に幕府の許可を得たオールコックが、富士山へと旅立ちました。いったんは折れた幕府でしたが外国人が人目に触れ、市民を刺激することを恐れて、物見禁止令を布きました。しかし偉人の姿を一目見ようと街道沿いは人で溢れかえりました。

「下にー、下に。下にー、下に。」

駕籠から沿道を覗くと、土下座で平伏す人々。「『シタニリヨ』という命令を発すると、まるで魔法がかけられたようにどの頭も下げられ、体は驚くばかりの有様である。」彼の目に日本人は奇妙な風習を持つ人々と映ったのでした。

 

一方で、当時の日本人はオールコックの様子をどのように見ていたのでしょうか。

静岡県富士宮市、村山の近くに残されています。

桝彌酒店(ますやさけてん)清酒 富士山、もろみなすののぼり旗

代々酒店を営む横関さんに貴重な資料を見せて頂きました。

横関及彦さん「『袖日記(そでにっき)』と申しまして、その当時うちのおじいさんが書き記したものでございます。」

横関さんのご先祖が袖に入れて持ち歩いていた日記帳には、当時の人たちがオールコックに対して「ウドンを多く食し」、「マグロの刺身」などを振る舞ったことが記されています。

地元の人たちは嫌悪感を感じていたのでしょうか。

安理子さん「心底は穏やかじゃないものがあったんでしょうけれど、そういうところをおじいさんが抑えて、失礼がないように外国の方をおもてなしした。」

幕府と地元の人々を巻き込みながら決行された前代未聞の外国人による富士登山で、いよいよオールコックは村山から山頂を目指しました。

 

旅の途中、お茶屋に立ち寄ったときに食べて大変気に入った食べ物がありました。

見た目も美しく旅の疲れも吹き飛んだといいます。

 

【Question 1】
オールコックが旅の途中で食べて気に入ったものとは?
→スイカ

千葉県富里市で毎年6月に行われる富里スイカロードレースでは、給水所の代わりに給スイカ所が設けられています。今年は1万2千人が参加したそうです。スイカを食べる目的で参加するランナーも多いそうです。

オールコックは、美味しいスイカが旅の疲れを癒やしてくれた、と記しています。

 

 

≪オールコックが見た幕末の富士山≫

オールコックの辿った登山道に向かいます。

山岳ガイドの西川卯一さんが付き添って先導してくれます。

「ここが、富士山最古の登山道である『村山道』(村山口登山道)の入り口(村山口)です。」

村山道とは村山浅間神社(村山口)から山頂へと延びる全長22kmの登山道です。村山口から森の奥へと石畳が続いています。かつてここは平安時代から続く富士山岳信仰のための登山道がありました。今回は特別な許可を得て、オールコックが実際に歩いたルートで山頂を目指します。

村山口登山道は明治時代になってから廃れて、現在は廃道となっています。

渡部さん「ジャングルですね」

※村山道は現在は登山道として整備されていません。遭難など危険があるため許可なく立ち入ることはできません。

歩くこと3時間。標高840m

巨木があります。大ケヤキです。杉林の中に立つ、一際巨大な欅の木です。

西川さん「ここは村山道を登ってきた修験者たちが札を打ったとされる場所です。」

修験者とは山で厳しい修行を積む僧侶のことです。彼らはこのケヤキに木札を納めて登山の無事を祈願していたそうです。

大ケヤキの先にもオールコックが見た重要な史跡が残されています。

標高1280mには、中宮八幡堂跡。

西川さん「富士山中宮八幡堂です」

かつてこの場所には16世紀に建てられたお堂があったため、多くの修験者がここで足を止め休憩しました。

明治35年の中宮八幡堂の様子

「神聖なるひとりの者がフジヤマの上にいて、彼の霊魂が巡礼を行う人々に対して祝福を授けているかのようである。」(ラザフォード・オールコック著「大君の都」)オールコックは富士山に信仰を捧げる日本人の姿を目の当たりにしたのでした。

オールコックが描いた巡礼者の様子

標高1500m付近

西川さん「この辺から見事な景色になってきます」

渡部さん「神秘ですね」

深い森の中に広がる苔生した緑の絨毯。駿河湾から吹きつける湿った風が富士山にぶつかり、大量の霧が発生します。一帯の溶岩や樹木はコケに覆い尽くされています。この風景は富士山独特の地形が生み出したものです。

富士山の植生を記録したメモ

富士山の植生は標高によって変化します。オールコック一行には植物学者も同行し、どの標高にどんな植物があったか、詳細な記述が残されています。(8000feetには、larch:カラマツ)

さらに富士山中腹には知られざる世界が残されていました。

標高1850m

渡部さん「折れたり、倒れたり、辺り一面が倒木で覆われています。」

西川さん「私たちは倒木帯と呼んでいます。1996年の台風で山帯の木々が全てなぎ倒されてしまった場所です。」

地面が溶岩で覆われた富士山は土の層が薄く、木の根っこが深くまで育つことができず、倒れやすいのです。

オールコックもここで同じ風景を見ていました。「私はそこで台風が猛威をふるって樹木を吹き飛ばした痕に出くわした。(At first we found trees of large growth – goodly trunks of the oak, the pine, and the beech – and came upon many traces of the fury with which the typhoon had swept across.)」(「大君の都」)

さらに、この倒木帯はもう一つの世界を創り出しました。

背の高い木々が倒れたことで地面に光が届き、夏の間だけ可憐な花を咲かせています。

渡部さん「美しいです。メルヘンですね。富士山は色々な表情を見せるんですね。」

足元にはヒヨドリバナが群生していて、花畑が辺り一面に広がっています。

西川さん「そうですね。上を登っているだけでは気付かないものがたくさん、この森の中にあります。」

倒木帯を抜けて更に険しい道を登っていきます。

標高2400m

渡部さん「遂に森を抜けました!森林限界です!」

背の高い樹木が生息できない森林限界まで辿り着きました。

石の山道から富士宮口登山道6合目へ。

標高2500m

遂に、村山道を抜けて一般の登山者が登ってくる富士宮口6合目へと合流しました。

山小屋「雲海荘」の看板が見えます。

渡部さん「富士宮口登山道と合流しました。すごくホッとしました。安心感が違います。」

オールコックが2泊3日かけて登ったルート、渡部さんも同じ道を辿ってここまで延べ17時間歩いてきました。

標高3100m

渡部さん「かなり(傾斜が)キツくなってきてます」

山頂に近づくにつれて登りは一段と急になってきます。

体力も限界に差し掛かってきました。

標高3600m

西川さん「山頂が見えてきました」

渡部さん「鳥居が見えます。やってきました。もうひと踏ん張りです。」

雲の間から山頂が姿を現しました。

山頂目前の様子をオールコックはこう記しています。「1時間以上も苦しい登りが続き、息が苦しく、度々立ち止まる必要に迫られた。そして頂上に最後の一歩を踏み、大きく口を開けた噴火口を見下ろすまでに、力尽きてしまうほどに感じた。」

最後の登りです。

富士山頂奥宮
頂上浅間大社

渡部さん「鳥居を踏み越え、到着しました。村山道入り口から山頂に辿り着きました。感無量です!」

身の危険を冒し、困難を克服しながら、外国人として初めて山頂に立ったオールコックでしたが、彼が富士山に登った目的は、日本の本当の姿を知るためだけではなかったといいます。

元駐日英国大使ヒュー・コータッチさん「当時、日本とイギリスが結んだ条約には、日本国内をイギリス人が自由に旅行できる権限が含まれていました。国を代表する人間がその権利を実際に行使することは、とても重要なことだったのです。」

オールコックは日本の象徴である富士山に自ら登ることで、イギリス人が日本で自由に活動できる環境を作り出そうとしていたのです。

 

山頂には夏になると付近の永久凍土が溶けて地下水が湧き出す井戸がありました。

登山者はその水を神通力のある御霊水として珍重し、汲んで持ち帰ってあることに使いました。

 

【Question 2】
登山者が山頂の湧き水を使ってしたこととは?
→墨に溶いて絵を描いた

富士山山頂の御霊水を使った品が、京都市の車折神社(くるまざきじんじゃ)に残されていました。

神職の丸山拓さん「山頂北側から出ている金明水を使って描かれた水墨画『不盡山(ふじさん)頂上図』です」

富士山のお鉢が俯瞰で描かれています。

描いたのは幕末生まれの画家、富岡鉄斎(1837-1924年)[アマナイメージズ]です。

当時、聖なる力が宿るようにと富士山の御霊水を書や絵に使うことが大流行していました。

ちなみに山頂の御朱印(表口頂上之印)は御来光をイメージしているのだそうです。

 

 

当時の本物の瓦版「異人登山に富岳の怒り」(東京大学大学院情報学環 学際情報学府図書室)

雲に乗った天狗が現れて、オールコックと思われる外国人が富士山から転落している挿絵。「御山は日本第一のあらたかなる霊山なり。異人は登山すべからず。早く下山いたすべし。」この瓦版のように当時、外国人が許せないという人も少なくなかったのでした。

攘夷の嵐が吹き荒れる中、富士登山を行ったオールコックに身の危険が降り掛かってきます。

オールコックが富士登山を決行した翌年、1861年5月、彼が住んでいた東京高輪の東禅寺を攘夷派の水戸浪士が襲撃するという事件が起こりました。外国人が霊峰を汚した、として攘夷派の怒りを買ったのでした。

この東禅寺事件(笠間日動美術館所蔵)で、幸いにもオールコック自身は難を逃れたものの、書記官など複数の英国人が負傷してしまいました。

襲撃直後のオールコックたちの様子

しかし、オールコックは事件の報告書に意外なことを記しました。「日本は今、革命の混乱に巻き込まれている。だから仕方がない。」イギリス本国へ日本を庇うような報告をしたのでした。なぜ、自らの命を狙われたのにも関わらず、そのような報告書を書いたのでしょうか。その謎を解く手掛かりが熱海にありました。

静岡県熱海市

富士登山を終えたオールコックは、江戸に戻る途中、熱海に立ち寄って、休養(温泉湯治)を取っていました。

オールコックは富士登山の旅に愛犬のスコッチテリア(スコティッシュテリア)「トビー」を連れていましたが、一瞬目を離した隙に噴き出した間欠泉の熱湯に触れて大火傷を負い、死んでしまったのです。

愛犬の死に落ち込んでいたオールコックが見たのは、トビーを哀れんだ熱海の人々がまるで人間を弔うかのように、手厚くトビーを埋葬する姿でした。「あらゆる階級の人たちがあたかも自分の親族が死んだかのように悲しそうな顔つきでまわりに集まってきた。」(「大君の都」)

この行動に心を打たれたオールコックは、日本の一般市民は外国人を温かく受け入れる心を持っているのだと知りました。

熱海の温泉街、熱海ニューフジヤホテルの並びにあるニューフジヤホテルアネックスの裏手。トビーが命を落としてしまった間欠泉は、大湯間歇泉と呼ばれ、今でも勢いよく噴き出しています(この間欠泉は昭和初期に噴出が止まり、昭和37年に人工的に噴出する間歇泉として整備され、熱海市の文化財として保存し現在に至っているという。風流に大湯間歌泉とも呼ばれる。)。

間欠泉のすぐ脇に建てられている石碑は、トビーの墓碑です。(Poor Toby! 23 Sept. 1860)熱海の人々の優しさに触れたオールコックは、その友情を忘れずに残そうと考えて、この墓石を贈ったのだそうです。

 


大きな地図で見る

熱海温泉の守り神として信仰を集める湯前神社(ゆぜんじんじゃ、熱海市上宿町)では、2月10日、春季例大祭の湯くみ式と献湯祭が営まれます。同神社奉賛会会員や旅館関係者、芸妓(げいぎ)衆らが参列します。まず神社に隣接する大湯間欠泉の湯を汲んで神前に納め、湯脈の永続や温泉街の繁栄を祈願します。間欠泉前で行われる神事では天然温泉を柄杓で汲み取り、樽や白磁器の瓶子(へいし)に注ぎ入れ宮司の先導で神社に運ばれていきます。続く献湯祭で市民や観光客の健康長寿などが祈願されます。湯前神社の創建は約1200年前とされ、大湯間欠泉と共に「熱海温泉発祥の地」として尊ばれています。

 

オールコックが日本を擁護した背景には、このような熱海の人々との交流が隠されていたのでした。

オールコックとトビーの記念碑「初代駐日英国公使 サー・ラザフォード・オールコック Sir Rutherford Alcock」(熱海ライオンズクラブ40周年記念事業)

 

イギリス本国へ日本を庇う報告をしただけでなく、彼は次に、開港を進めるために日本へ派遣されていた英国公使とは思えない行動を起こしました。

幕末の混乱を心配した彼は、開港を遅らせるために日本からヨーロッパに使節団を派遣すべきだと幕府に進言しました。こうして派遣されたのが文久遣欧使節団でした。(Image: TNM Image Archives)オールコック自身も交渉に参加し、英国との間に開港を5年先延ばしにする約束を取り付けたのでした。

オールコックは日本を理解し、日本のためにできることに苦労を惜しみませんでした。そんな彼にはもう一つ、日本を好きになる理由がありました。

ロンドンにあるヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)には、彼が日本から送った品物が残されています。万博に出品された伊万里焼などの陶磁器が陳列されています。

オールコックは在任中、日本の工芸品に魅了され、様々な美術品や日用品を収集していました。そして、それらの品を1862年のロンドンで開かれた万国博覧会に出品しました。万博の日本ブースには600点にも及ぶ品々が展示されたそうです。当時彼が出展した品々は世界の人々の目にどのように映ったのでしょうか。

日本の工芸品に詳しい美術商ハワード・ブローワーさん「西洋の人々の多くは日本の品々をこのとき初めて目にしました。そしてその繊細な仕事に感動を受けたのです。日本に対する世界の人々の興味は、この瞬間から始まったと言っても過言ではありません。」

万博に出品された日本の工芸品

万博を訪れる遣欧使節団

ちなみにこのロンドン万博にはオールコックが派遣を進言した遣欧使節団も参加しました。後に明治維新の立役者となる福沢諭吉(1835-1901年)[慶應義塾図書館所蔵]をはじめ、侍たちはここで当時最新鋭の大砲(アームストロング砲)や植字機(後のタイプライター)など、西洋の高い技術力を目の当たりにしました。オールコックはそれら西洋の進んだ文化を見せることによって、侍たちにこれから先の日本が進むべき未来を指し示したともいえるのです。

徳川封建体制が崩壊し、日本が明治という近代化の時代を迎えるのは、オールコックの富士登山から8年後のことです。

 

オールコックがロンドン万博に出品した日本の品物の中には、使節団の侍が見てそのみすぼらしさに大変がっかりした日用品がありました。その日用品は、使節団も海外で大量に必要になると想定して用意しましたが、実際にはほとんど使われなかったそうです。

 

【Question 3】
万博に展示され侍が見てがっかりした日用品とは?
→わらじ

ロンドンで英国人の皆さんに実際に身に付けて貰いました。
「軽すぎて落ち着かないわね」
「若者に売り出したらきっとウケるわよ」
「大地を感じます。でもこれ無防備すぎないかな?」

わらじは四里(およそ16km)歩くと擦り切れるとされたため、外国で歩き回ると考えた使節団は大量にわらじを用意して出掛けたものの、ヨーロッパには馬車や鉄道などの旅客交通手段が整備されていて、わらじはほとんど擦り切れることがなかったのだそうです。

1862年のロンドン近郊の機関車の様子(アマナイメージズ)

わらじは富士登山にも欠かせないものでした。静岡県御殿場市では安全を祈願して巨大なわらじを御神輿にして担ぐ伝統の「御殿場わらじ祭り」が行われています。

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コメント

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    今年の夏は本当に暑いですよね。皆さん夏を満喫していますか?
    夏にしかできない事、食べられないものイッパイありますよね。
    私はこの夏、スイカをいっぱい食べています(^-^)v♪
    最近のスイカは昔に比べて甘くなったような気がして、私は塩をかけることが無くなりましたが、皆さんはいかがですか?
    まだまだ暑い日が続きますので、シッカリ水分補給して夏を乗りきってくださいね♪

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