ダム広場の新教会と王宮(オランダ・アムステルダム)

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Tulip

2013年5月4日放送「世界ふしぎ発見!」(第1272回)は、「新国王誕生! オランダ 幸せの国の素顔」(ミステリーハンター:中田(なかだ)あすみ さん ※初挑戦)でした。

 

 

オレンジ色の王国、オランダ。

街全体がオレンジ色のお祝いムード一色に染まり、新国王の誕生を祝っています。

毎年4月30日は女王の日(Queen’s DAy)という祝日で、これまでベアトリクス女王(在位1980〜2013年)の誕生日を祝ってきました。

オランダ王室オラニエ=ナッサウ家の「オラニエ」とはオランダ語で「オレンジ(orange)」の意味で、そのため王室のカラーはオレンジなのだそうです。

そのため女王の日には皆オレンジ色の洋服、帽子、眼鏡、首飾り、ウィッグ、小物などを身に付けてお祝いするのだそうです。

2013年の女王の日は、これまで王の座にあったベアトリクス女王が退位して、長男ウィレム=アレクサンダー皇太子が新国王に即位するという、国民にとって特別な日となりました。

新国王の即位式には日本の皇太子殿下、雅子妃殿下など、世界中の王室が参列しました。

王宮前の広場に集まったたくさんの人たちの前に、75歳を迎えたベアトリクス前女王、ウィレム=アレクサンダー新国王、マキシマ新王妃の三人が姿を現すと、あたりは祝福の大歓声に包まれました。

ウィレム=アレクサンダー新国王「女王に代わり、ここにいる皆さんとオランダ国民すべてにご支持と信頼の御礼を申し上げます。」

「最高の王様と本当に美しい王妃ね」
「マキシマ王妃はきっと立派な王妃になるわ」

新国王とともに人気なのはマキシマ新王妃で、彼女のファッションは常に女性達の注目の的です。

 

奇跡のオレンジダイヤモンド

春の風物詩、オランダ名物のチューリップ畑

ミッフィーが女王様に!?

誕生から200年、オランダ王室が国民に愛され続けてきた秘密とは?

国民を感動で包んだ若き日のロイヤルウェディング

ニューヨークのキャリアウーマンからプリンセスへ、波乱のシンデレラストーリー

受け継がれてきたオランダの心

オランダ王室を紐解けば、大人から子どもまで暮らしの満足度世界一という幸せの国の素顔が見えてきます。

 

現代のシンデレラストーリーを歩んだヨーロッパのプリンセス達

オランダのウィレム=アレクサンダー国王、マキシマ王妃

スペインのフェリペ皇太子、レティシア妃
→レティシア妃は元テレビのニュースキャスターでした。

デンマークのフレデリク皇太子、メアリー妃
→メアリー妃はオーストラリアで広告代理店勤務、シドニー五輪の取材で訪豪していたフレデリク皇太子とパブで出会ったそうです。

ノルウェーのホーコン皇太子、メッテ=マーリット妃
→メッテ=マーリット妃はシングルマザーでした。(マリウス王子には王位継承権はありません。)

 

スウェーデン出身のLiLiCoさん「大使館のリビングで国王(スウェーデンのカール16世グスタフ国王)と会ったことがある」

 

アムステルダムの街では、王室に関心が高くとても親近感を抱いているようです。

「国王はとても素敵な方だと思う。スポーツも得意だし。」

「今まで女王が3代も続いたから新しい時代が来ると思う。王妃はとっても綺麗。」

「王妃が好き。オランダに来てくれて本当に良かった。」

才色兼備で国民の人気が高いマキシマ王妃は、南米アルゼンチン出身で、彼女がニューヨークの銀行で働いていたキャリアウーマン時代に皇太子と知り合い、結婚しました。

そんなマキシマ王妃のファッションは、皇太子妃時代から注目の的でした。

王妃の毎日のファッションを掲載するウェブサイトまであるそうです。

サイトを作った王室ジャーナリストのヨシネ・ドローヘンダイクさん「王妃はフォーマルに大柄なプリントや大胆な色を取り入れたり派手なアクセサリーも好き。ブーツスタイルは彼女が王室の人たちに流行らせた。」

マキシマ王妃が着けたオレンジダイヤモンドの婚約指輪は、当時大きな話題になりました。

ロイヤル・アッシャー ダイヤモンドカンパニー副社長のマイクE.アッシャーG.G.さんから約1300万円の輝き。

ダイヤが生成される時、不純物が混ざることで色付くオレンジダイヤモンドはまさに偶然の賜物です。

74面に磨くロイヤル・アッシャー・カットを施したダイヤモンド研磨職人のリニ・トゥレさん「王妃のダイヤは俺が磨いたんだ」

 

 


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アムステルダムの街の中心、ダム広場にある新教会は、16世紀に建てられ、歴代オランダ王の即位式(戴冠式)や結婚式などが行われてきました。

その新教会で11年前、ウィレム=アレクサンダー皇太子とマキシマ皇太子妃の結婚式が執り行われました。

実は二人の出会いからロイヤルウェディングに至るまでには様々なドラマがありました。

遡ること1999年4月、マキシマさん(当時27歳)は休暇でスペインのセビリアを訪れていて知り合いのパーティに出席しました。

会場の様子を何気なく写真撮影していたところ、ウィレム=アレクサンダー皇太子(当時31歳)から「勝手に写真を撮るのは失礼だ」と注意を受ける。

親戚に紹介された女性を連れていた皇太子はカメラに対して神経質になっていたそうです。

マキシマさん「叔父様はあなたのことが嫌いなの?」

皇太子「なぜ?」

マキシマさん「(連れていた女性を指して)あんなに魅力的じゃない人を紹介するなんて、・・・冗談よ!」とジョークで返した。

その後、ニューヨークに戻ったマキシマさんの元に、皇太子から3週間にもわたって連日のように電話があった。

皇太子からの熱心で積極的なアプローチに、マキシマさんは次第に心を許すようになりました。

セビリアでの出会いから1ヵ月、友人の結婚式のためにニューヨークへやってきた皇太子と初デート。

マキシマ妃の伝記「王妃マキシマ」の著者で個人的な知り合いでもあるイヴォンヌ・フーベさん「皇太子は『友人の結婚式のためにニューヨークへ行く』と言ったが、実際に式に出席したのは皇太子ではなく、彼の弟でした。」

1999年8月、夏の離宮、マキシマさんはベアトリクス女王に初対面。

マキシマさんは王侯貴族の出身ではなく、一般家庭の生まれ。

ヨーロッパではなく、南米の出身なのでした。

オランダはプロテスタントだが彼女はカトリックでした。

出身や仕事、オランダに関する知識など女王からの色々な質問に臆することなく答えた。

マキシマさんの毅然とした態度に魅せられ、彼女を助けたのが、クラウス殿下(ドイツ出身でベアトリクス女王の夫となり王室に入った)でした。

しかし、世間からは反対の声。

マキシマさんの父親はアルゼンチン軍事独裁政権の政府高官を務めていた人物だったことが判明したのです。

実際に罪を犯したかどうかは解らないが疑わしいという理由だけで非難の的になりました。

イヴォンヌ・フーベさん「王女時代のベアトリクス女王とドイツ外交官時代のクラウス殿下の時も、第二次世界大戦で敵国としてドイツと戦った経験のある国民からは『結婚反対』の署名運動が起こりました。」

例え両親が認めても、オランダでは王位継承者の結婚には国会の承認が必要であり、話し合いの末に妥協案が提示され、

ウィム・コーク首相から「(二人の結婚を承認するための条件として)マキシマさんの父親が結婚式に出席しないこと」と伝えられました。

記者会見の場、マキシマさんは流暢なオランダ語で「私の父は独裁政権の閣僚でした。間違った政権下で農業政策に従事していました。私は絆の強い家庭に生まれました。これからも常に私の味方である父を慕い、信頼し続けるでしょう。ですから父は家族が悲しむことを承知で私たちの結婚式には参列しません。」

マキシマさんのオランダ語教師ウィム・ヴァン・デル・フーベさん「まだ若い盛りに王室という自由が制限される環境に入ることに不安な様子もありましたが、(今となっては)心配要らなかったようですね」

ウィム・ヴァン・デル・フーベさんが大切にしているという、マキシマさんから届いた直筆の手紙には、彼女に本を贈ったことへのお礼がオランダ語で綴られているそうです。

「よく見ると、単語のスペル「bibliotheek(図書館)」が「biblioteek」と綴りが間違っている。私の宝物ですよ。」

オランダ議会が二人の結婚を承認し、2002年2月2日、ロイヤルウェディングが行われました。

教会に響き渡ったのはアルゼンチンタンゴ「アディオス ノニーノ(さよならパパ)」

それは、結婚式へ同席することが許されなかった父親への花嫁からの別れの挨拶でした。

マキシマ王妃が国民から愛される理由は、数々の障壁を乗り越えて幸せを手にしたその姿を、みんなが知っているからかも知れません。

 

【クイズ1】
皇太子がマキシマさんを誘ったオランダの国民的スポーツとは?
→スケート

オランダの国民的スポーツである「スケート」に誘いました。

マキシマ王妃には初めてでしたが皇太子のとても得意なスポーツでした。

オランダでは冬の時期に凍った運河でスケートを楽しむ。

16世紀に大流行し、貴族は優雅さを競うフィギュアスケート、農民は速さを競うスピードスケートへと発展させた。

皇太子はプロポーズするため、マキシマさんを宮殿内の池に誘った。

なかなか切り出せず、2時間ほど滑った後、藪の中に隠してあったシャンパンとバラの花束を取り出してプロポーズしたのだそうです。

 

 

≪国を守った女王3代、120年続いた歴史≫

クリス松村さんの家は外交官でオランダで生まれたそうです。「0〜2歳までなので、オランダの記憶が全くない。母の話では宮殿の晩餐会に招待されてユリアナ女王と食事をしたことがある。」

春のチューリップ畑、黄色の花びらに赤いラインが入った「オランダの女王」と呼ばれる品種があるそうです。

ミッフィーが夢の中で王冠をつけた女王になる絵本、日本語版タイトルは「うさこちゃんはじょおうさま」。

王室が歩んできた歴史

1815年にフランスから独立したオランダでは、国民に推され有力貴族だったオラニエ家の当主ウィレム1世(在位1815〜1840年)が初代オランダ国王の座に即きました。

オランダの王室は民主主義で選ばれた王室だったのです。

現在に至るおよそ200年の間、オラニエ家が国王の座に即いてきました。

1815年〜 ウィレム1世

1840年〜 ウィレム2世

1849年〜 ウィレム3世

1890年〜 ウィルヘルミナ女王

1948年〜 ユリアナ女王

1980年〜 ベアトリクス女王

2013年〜 ウィレム=アレクサンダー新国王

その半分以上120年が女王の時代でした。

2度の戦争から国を守ったのは、ウィルヘルミナ女王(在位1890〜1948年)。

「孤独です。でも一人ではありません。」

ウィルヘルミナ女王が暮らしたのがヘット・ロー宮殿。

第一次世界大戦で中立を保ち、戦争を避けましたが、第二次世界大戦(1939〜1945年)ではドイツの侵略を受けました。

家族をカナダへ亡命させた後、ウィルヘルミナ女王はイギリスのロンドンからラジオ番組「ラジオ オラニエ」を放送し、占領下にあるオランダ国民を勇気づけました。

戦後、オランダに平和が戻るのを見届けると、自ら退位し、娘ユリアナ女王へと王位を継承しました。

優しい性格だったユリアナ女王(在位1948〜1980年)。

「儀礼は私の天敵です。」

国民から親しまれる王室を目指しました。

膝を屈めてお辞儀する礼を廃止し、レッドカーペットを敷かれてもその脇を歩きました。

庶民と同じように自転車に乗り、市場に買い物に出かけ、子どもたちも公立学校に通わせました。

ユリアナ女王が暮らしたのがスーストダイク宮殿。

1976年、ロッキード事件。

世界の政財界を揺るがした贈収賄事件のスキャンダルに巻き込まれ、女王の夫ベルンハルト公に疑惑がかけられました。

「ロッキード献金はフォッカー社を通じて殿下に」軍の航空機購入に関する収賄容疑でした。

ユリアナ女王は退位し、娘ベアトリクス女王に王位を継承するという重大な決断を行いました。

ベアトリクス女王(在位1980〜2013年)は王室への信頼回復を手掛けました。

「女王は常に正しい模範でなければなりません。」

当時オランダは経済危機に瀕していました。

王室担当記者のヤン・フーデマンさん「ベアトリクス女王は首相と共に政治の舵取りにあたりました。当時のルート・ルベルス首相は後に『私は女王と共に国を不況から救い、国際的な信頼を取り戻すため戦った』と言っているほどです」

ベアトリクス女王は1991年に来日、天皇陛下・皇后陛下とお会いになり、経済交流の架け橋ともなりました。

歓迎晩餐会では皇太子殿下、皇太子時代のウィレム=アレクサンダー国王も同席。

即位後、経済は回復し、12パーセントだった失業率が9年後には1パーセント以下に。財政赤字も解消されました。

ベアトリクス女王が暮らすのはハウステンボス宮殿。

国民からの信頼を回復していったベアトリクス女王の人気を物語るのが、75歳を記念し、75人の作品を集めてた開かれた「ベアトリクス展」。

新聞社が一般公募した作品、2200点の中から選ばれたものだそうです。

 

【クイズ2】
ベアトリクス女王が大切にしている 国民から贈られたものとは?
→ヨット

ベアトリクス女王が王女時代に国民からプレゼントされとても大切にしているものがあるといいます。

ヤン・フーデマンさん「それは女王がよく楽しみ、王室外交にも使われています。」

大航海時代から築いてきた航海技術を紹介している海洋博物館にはヨットの模型が展示されています。

14世紀に海賊を追うためにオランダで開発された船ヤハトが元になっている。

学芸員エリサベット・スピツさん「このヨットは女王が18歳の成人の記念に国民から贈られたものです。女王はよくプライベートで外国のお客様を船に乗せて自ら操縦しています。」

 

 

ウィレム=アレクサンダー国王、マキシマ王妃との間には3人の王女が生まれました。

アマリア王女(Amalia、長女)
アレクシア王女(Alexia、二女)
アリアーネ王女(Ariane、三女)

3人の王女は頭文字をとってトリプルAと呼ばれるそうです。

2012年には、3人が絵柄になった記念切手が発売されました。

そんな王女たちが柔道を習っているそうです。

オランダでは柔道が人気で街中で気軽に習うことができるそうです。

国王一家も観戦したロンドン五輪ではエディス・ボッシュ選手が銅メダルを獲得しました。

東京五輪で金メダルを獲得したアントン・ヘーシンク選手もオランダ人でした。

柔道スクールのインスティチュート・スレイダーを訪問。

得意技は寝技というヤスミンちゃん(7歳)は、このクラスで一番強い女の子です。

王女たちもこうしたスクールで一般の子どもたちと一緒に学んでいるといい、国民と同じ暮らしを送るというユリアナ女王時代からの伝統が今も受け継がれています。

 

王女たちは学校も、地元の公立小学校に通っています。

オランダの小学校は4歳から12歳までの8年制で、7年生と8年生など複数の学年が同じクラスに混じって学ぶそうです。

日本の給食の時のように机をいくつかの島に分け、グループごとにくっつけて向かい合うように座り、先生の講義を聞くのではなく各自がバラバラで勉強しています。

オランダの小学校には決められた時間割がない。

7年生のノルマ例
月曜日
・言語 書き取り
・言語 文法
・地理 テキスト11章

火曜日
・言語 書き取り
・数学 テキスト15章

水曜日
・言語 読解
・英語

・・・

1日のノルマを済ませれば、後は生徒の興味や理解度に合わせて学ぶ順序を決めて学習を進めるのだそうです。

男子生徒「(嫌いな科目は)友達と一緒にやるんだ。そうすれば楽しいし。」

女子生徒「家で勉強はしない。学校で終わらせています。後でやろうと思っていると大抵できないから。」

先生「10年ほど前、この学校に着任しましたが、最初の1年は毎日冷や汗をかいて大変苦労しました。子どもたちも低学年から自主的に学ぶ態度を身に付けていくことが大事。」

10年ほど前からスタートしたこの新しい教育制度。

2007年にユニセフが調査した「世界の子どもの幸福度」では、1位がオランダ、2位がスウェーデン、3位がデンマークとなった。

 

≪子どもたちが幸せな理由は家庭にも≫

イシスちゃん(10歳)のお宅では18時に父アレクス(45歳)さんが帰宅。

職場は自宅から30分ほどで夕食は毎日自宅で食べるそうです。

家事は交代制でこの日はお父さんが料理当番。

メニューはオランダの家庭料理しいたけのリゾットと豚肉のロースト

アシスタントはイシスちゃん、妹ララちゃん(8歳)、中田さんもちょっとだけお手伝い。

母ユディトさん(50歳)「みんなが手伝ってくれて助かる」

中田さん「日本では平日に家族揃って食事することがなかなか無い」

アレクスさん「我が家では一日の終わりに家族みんな揃ってご飯を食べて、その日にあったことなどを話す団らんをとても大事にしている」

ユディトさん「子どもたちが大きくなればみんなで食べるのが難しくなるから、今はできるだけこうしたい」

イシスちゃん「家族みんなでいるほうが絶対楽しいと思う」

ララちゃん「みんなと一緒にいたほうが楽しいし、大切なことだと思う。いつも一人でご飯を食べたり、ゲームをしたりしていると、他の人との付き合い方についてわからなくなっちゃうでしょ」

家族と過ごす時間、それは誰もが感じることができる小さな幸せ。

新国王誕生に沸くオランダ、そこに暮らす人たちは、国民みんなから愛される王室と共に、幸せの文化を守っていくのでしょう。

 

【クイズ3】
新国王がしていた意外な仕事とは?
→パイロット

ウィレム=アレクサンダー国王はかつて空軍に所属して軍用ヘリコプターを操縦していた。

旅客機のパイロットのライセンスも取得。

ヤン・フーデマンさん「ライセンスを更新するには継続飛行が義務。皇太子時代には身分を伏せて、毎月決められた回数、飛行機を操縦していました。」

スキポール空港の水色と白色のツートンカラーにブルーのラインが入った機体。

操縦していたのはKLM(オランダ航空)の旅客機。

Koninklijke Luchtvaart Maatschappij(王の 航空 会社)は、1919年ウィルヘルミナ女王の援助により設立されました。

 

 

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2013年8月12日、オランダ王室はスキー中の事故で意識不明となっていたヨハン・フリーゾ王子が同日、脳の損傷に伴う合併症により、同国ハーグの王室所有の宮殿で死去したと発表しました。44歳でした。

フリーゾ王子は、2012年2月にオーストリアでスキー中に雪崩に遭遇。救助されたが、雪の下敷きになっている間、酸素の欠乏で脳が損傷し、意識が回復しなかった。17ヵ月以上「ほとんど意識のない状態」が続いていました。

当局者によると、王子はオーストリアのスキーリゾート、レッヒ・アム・アールベルクのゲレンデの外で友人らとスキー中に雪崩に巻き込まれ、救出されるまで雪の下敷きになったことで酸欠状態に陥ったという。当時、王子を診察した医師は「王子は脳を損傷した」と述べていました。

王子はオーストリアで治療を受けた後、英国ロンドンの病院に移送され、そこで1年以上入院していましたが、先月退院してオランダ・ハーグに移り、自宅で治療を受けていたということです。

ヨハン・フリーゾ王子はオランダのウィレム・アレクサンダー国王の弟で、2004年に一般女性と結婚した際、議会の承認を求めず、王位継承権を放棄した。

 

 

アムステルダムの「ゴッホ美術館」は大規模な改修工事が行われ、2013年5月01日に再オープンしました。

※ゴッホ美術館 (Van Gogh Museum)
 住所: Paulus Potterstraat 7, 1071 CX Amsterdam
 開館時間:
 ~9月30日 毎日 10:00~18:00 (金曜は22:00まで)
 10月1日~ 毎日 10:00~17:00 (金曜は22:00まで)
 ** 5月01日、年末年始は時間変更あり。
 ** チケット売り場は閉館30分前まで。

 入場料: 大人(1名) 15ユーロ、0~17歳は無料
 詳細:http://www3.vangoghmuseum.nl/
  (オランダ語、英語、日本語他 ※特別展に関してはオランダ語と英語のみ)

「ゴッホ美術館」が新たに発見、ゴッホの作品として発表した「モンマジュールの夕暮れ」(Sunset at Montmajour)は、2013年9月24日(火)より同美術館の特別展「Van Gogh at Work」にて一般公開(2014年10月まで公開予定)。ゴッホファン必見の作品です。この時期に旅行予定の方は、是非ご覧ください。

ゴッホ美術館所蔵の主要作品である「ひまわり」は、イギリス、ロンドンの「ナショナルギャラリー」で開催される特別展に貸し出されるため、一時鑑賞不可となります。

 ■「ひまわり」鑑賞不可期間: 2014年1月13日(月)~
 尚、同美術館にて再度見学可能となるのは、2014年の夏頃からとなる予定です。

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コメント

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    かつての郵政省が制定した、毎月23日といえば「何の日」でしょう?
    正解は「ふみの日」です。
    昭和54年(1979年)、郵政省(現在の総務省)が「手紙の楽しさ、手紙を受け取るうれしさ」を広める目的で制定しました。「文月(ふみづき)」である 7月 の 23日 には記念切手も発行されます。

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    あたたかくなったり、寒くなったりと気温の変化が激しい季節ですね。
    このシーズンは本当に何を着たらいいのか迷ってしまいます。
    洋服で迷わない季節になって欲しいと願う、今日この頃です。

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