ニューヨークの摩天楼エンパイアステートビル

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New York City skyline

2013年6月15日放送「世界ふしぎ発見!」(第1278回)は、「華麗なるジャズ・エイジ ニューヨークの嘘(ミステリー)」(ミステリーハンター:瀬戸カトリーヌさん)でした。

 

 

ニューヨークシティの象徴といえば空高くそびえる摩天楼の山並みです。

第一次世界大戦が終わって間もない1920年代、空前の好景気に沸いていたアメリカ・ニューヨークでは、超高層ビルが世界一の高さを競って次々と建てられていきました。

世界中から人々が集まる世界都市ニューヨークはマンハッタンの中心、エンパイアステートビル(the Empire State Building)の建設が始まったのも1929年のことでした。当時、世界一の高さを競ったエンパイアステートビルの展望台は102階にあります。エレベーターの表示は階数ではなく高さ表示。あっという間に1,250 feet(フィート)、最上階の102階に到着です。(1feetは約30cm)

瀬戸さん「80年以上前に、102階があるというのはどういうことでしょう!」

102階の展望台は地上381m。1931年の完成から40年以上、エンパイアステートビルは世界一の高さを誇りました。

 


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1920年代は「アメリカ合衆国が最も幸福だった時代」だと言われます。それは第一次世界大戦で戦場にならなかったアメリカが、ヨーロッパに代わり世界経済と製造業の中心となった絶好調の時代だったからです。

好景気に沸いたウォール街には世界中の富が集まりました。その中心だったニューヨークは、立身出世のアメリカンドリーム(American Dream)を求め、夢と希望をつかもうと、たくさんの人々で溢れかえっていました。

華やかで、軽薄で、クレイジーなこの時代を、ニューヨーカーは今も郷愁を込めてジャズ・エイジ(Jazz Age)と呼んで憧れています。

Cityを席巻していたのは、2013年5月の公開を控えた、ジャズエイジのニューヨークを舞台にした映画「華麗なるギャツビー」です。それは新作映画のプロモーションというよりもNew York City全体がこの映画の公開を祝福しているようでもありました。

「華麗なるギャツビー」(2013年6月14日より全国ロードショー)の舞台は1922年のNY、金と自由を持て余した狂乱の時代、そこに突如現れた大富豪ジェイ・ギャツビー(J.Gatsby)、大邸宅で夜ごと開かれる盛大なパーティーには富を享受しようとニューヨーク中の人々が集まります。しかしギャツビーとは誰なのか?(Who is Gatsby?)誰も知らない。彼はいったい何をしてこれほどまでの莫大な富を築き、何のためにこんな馬鹿みたいな豪快なパーティーを連日連夜にわたって開くのか?

全てはデイジー(Daisy)という女性のため、彼の若き日に叶わなかった一つの恋のためでした。男はその恋のために人生を賭けて成り上がり、見事に大成功をつかみ取ったのです。彼は過去も現在も全てを作り上げました。しかしその栄光と栄華はやがて崩壊します。

映画「華麗なるギャツビー」の原作は、アメリカ現代文学の最高峰、フランシス・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald 1896-1940年)の書いた小説「ザ・グレート・ギャツビー」(偉大なギャツビー、華麗なるギャツビー、The Great Gatsby)です。

そして「The Great Gatsby」の著者であるF・スコット・フィッツジェラルドこそが、この時代をジャズ・エイジと名付けた張本人でもありました。

ギャツビーのモデルはフィッツジェラルド自身でもあります。この物語の結末は、彼自身の行く末を暗示するような悲劇でもあると同時に、出版から4年後に訪れる世界経済の崩壊を予見していたかのようでもありました。

バズ・ラーマン監督「何もかもが上り調子だった時がクラッシュして世界恐慌が起こった。この本に描かれているのはまるで今の僕らの世界みたいだ。 」

ギャツビーを主演するレオナルド・ディカプリオさん「今回アメリカで歴史的に有名な小説『ザ・グレート・ギャツビー』を映画化しました。みなさん是非ご覧ください。」

金と自由を持て余した1920年代に浮かび上がる光と影、世界恐慌が起こるまでのきらめく10年間、ニューヨークにはアメリカ中の夢と希望が溢れ、やがて崩壊しました。しかしその面影や輝きは今もニューヨークに残り、人を惹きつけて止みません。

プラザホテルのパーム・コート

ロバート・キャンベルさん(ニューヨーク出身、日本文学者、東京大学比較文学比較文化研究室教授)「『ザ・グレート・ギャツビー』は学校の教科書でも扱われている。最初に読んだのは高校2年生の時でした。授業で習いました。アメリカンドリームというのが、叩き上げで、何も無いところから努力してお金と名声を手に入れるわけですね。その裏に、何か暗い影であったり、自信のなさとか、時代に翻弄される姿とか、そういう歴史のエネルギーというものが、あの小説の中には込められている。だから高校生にとってはシビれるものがある。村上春樹さんが日本語に翻訳していますよね、『グレート・ギャツビー』というそのままの題名の本です(中央公論新社刊)。村上さんは、これが何か創造的な仕事をする第一歩だ、と自分で語っている。そういう意味で日本文学にも、ものすごく大きな影響を与えている作品であると思います。」

LiLiCoさん「レオナルド・ディカプリオが演じているギャツビーがすごくかわいそうなんです。私があの時代にいたら助けてあげたい。トビー・マグワイアとレオナルド・ディカプリオの大親友同士が共演するところも見所だと思います。」

 

≪鉄道の黄金時代≫

「ザ・グレート・ギャツビー」が書かれた1920年代は、鉄道の全盛期でした。

グランド・セントラル・ターミナル(Grand Central Terminal)は、アメリカ最大の駅でニューヨークの中心に1913年に駅舎が完成しました。向かいの大きな窓ガラスには100の文字、2013年2月にちょうど100周年を迎えたそうです。

グランド・セントラル・ターミナルは、来年2014年に100周年を迎える東京駅と姉妹提携を結びました。アメリカの鉄道駅と日本の駅との姉妹駅締結は史上初なのだそうです。日本も1920年代は戦後の特需に沸き、華やかな時代でした。

駅の完成とともに地下にオープンし、当時の面影を残すのが「グランド・セントラル・オイスターバー・アンド・レストラン」です。いわゆるエキチカであり、また老舗レストランというだけでなく、駅舎同様にニューヨークのランドマークとなっていて今も大人気のスポットです。

瀬戸さん「生牡蠣を頂きます。磯の香りが口の中に広がり、噛むと海のミルク、一気に海へ連れて行ってくれます。」

バーテンダーのマルセロ・ヘルナンデスさん「1920年代へようこそ!当時を味わいたいなら是非このサゼラック・カクテルを一緒にどうぞ。これがとっても牡蠣に合うんだよ。」

瀬戸さん「牡蠣といえば白ワインのイメージなんですけど、カクテルなんですね。」

マルセロ・ヘルナンデスさん「サゼラックって言ってね、ウイスキーとアブサンが入っていて、生ガキにとっても合うんだよ。ひとつ牡蠣を食べたらサゼラックをひと口飲むんだ。」

1920年代アメリカでは禁酒法(1920-1933年)が敷かれていましたが多くの人が隠れてお酒を飲んでいました。当時はこのサゼラックをコーヒーカップに入れて飲んでいたそうです。

グランド・セントラル・オイスターバー・アンド・レストランの世界2号店、3号店はともに東京にあるそうです(品川店、丸の内店)。

 

グランド・セントラル・ターミナルの歴史と秘密を教えてくれるツアーが、グランド・セントラル・ターミナル・ツアー(GCT Tour(The Official MTA Metro-North Grand Central Terminal Tour))で、毎日12:30分から大人20ドルで行われています。

ツアーガイドのダニエル・ブルッカーさん「この駅ができた1913年当時は旅行の手段は全て鉄道でした。空港も航空会社も高速道路さえなかったのです。この駅がアメリカ合衆国の入り口だったのです。」

【GCTの秘密1:喋る壁】

ダニエルさん「この壁の溝に向かって『やあ元気かい?こっちは何も問題ないよ』」

声がアーチ状の天井を伝って対角線上の柱にいる人と糸電話みたいに会話ができるのだそうです。

瀬戸さんはオーストラリアから来たアーシャさんと会話。

【GCTの秘密2:コンコースから見える窓ガラスの裏側】

迷路のような駅の裏側をぐるぐると歩いて行くと、足元にはガラス板の廊下。記念の「100」という文字が書かれていた窓ガラスの裏側に到着しました。

【GCTの秘密3:星座の謎】

メインホールの天井に描かれている星座の絵はなぜか反転しています。間違えたのか何かの意図があってそうしたのか理由は分かっていないそうです。

ダニエルさん「この駅は常にニューヨークの歴史の真ん中にありました。全てのニューヨークの全ての年代においてです。第一次世界大戦では兵隊たち送り出し、ジャズの熱かった狂騒の20年代にはニューヨークにミュージシャンたちを運び、大恐慌の時代には仕事を探す人々を見てきたのです。 」

瀬戸さん「ポスターの針の指している時間は、何か意味があるんですか?」

ダニエルさん「あれはもう一つの秘密です。7時13分を指しているんだけど、言い換えれば19:13だよね。このターミナルが建ったのは1913年だろ、これも小さな秘密なんだ。」

 

≪栄光のアメリカンドリームを求めたフィッツジェラルド≫

多くの人々がアメリカンドリームを掴もうとニューヨークへやってきた1920年代、「ザ・グレート・ギャツビー」の著者フィッツジェラルドも小説家として成功するという夢を抱いてニューヨークへやってきた若者のうちの1人なのでした。

彼には成功しなければならない理由がありました。その理由とは、フィッツジェラルドが従軍中に出会った良家の娘ゼルダ・セイヤー(1900-1948年)を振り向かせたかったからなのでした。

従軍のために集められたフィッツジェラルドとゼルダが出会ったのは、第一次世界大戦の終戦も近い1918年のアラバマでした。

21歳のフィッツジェラルドは美しいゼルダに、17歳のゼルダはハンサムで独特の雰囲気を持つフィッツジェラルドに惹かれてすぐに2人は恋に落ち、婚約しました。

しかし軍服を脱いでしまえば家柄も財産もないただの男でした。フィッツジェラルドは終戦後広告会社に勤め始めましたが、生活力を疑われ、ゼルダに婚約を解消されてしまいました。

彼は財産さえあればと、小説家として成功するという野心を燃やしました。時は金がものを言う時代だったのです。逆に言えば金さえあれば家柄の差も乗り越えられるようになった時代でした。

フィッツジェラルドはこの境遇を「ザ・グレート・ギャツビー」の作品世界へと投影するように描き出したのでした。物語の主人公ジェイ・ギャツビーも元々は貧しい出身で、そのために従軍中に落ちた上流階級の娘との恋が叶いませんでした。以来、ギャツビーは財を成すべく、あらゆることをしてかつての恋を取り戻そうとするのです。

フィッツジェラルドは1920年に、デビュー作「楽園のこちら側(This Side of Paradise)」を出版しましたが、この初版が1日で売り切れるという、無名の新人が書いた作品としては異例のヒットを記録しました。その名誉と富をひっさげてフィッツジェラルドは再びゼルダに結婚を申し入れて結ばれました。

二人が結婚式を挙げたのはニューヨークのセント・パトリック大聖堂で現在は修復中です。ロックフェラーセンターの前にある由緒正しい教会で、彼ら二人の結婚の記録が残されています。教会で結婚式を挙げる際に新婦が書く記録で公開されるのは世界初だそうです。

フィッツジェラルド23歳、ゼルダ19歳と書かれています。フィッツジェラルドの住所はホテル。

ロバート・ブベル神父「こちらはこの教会での結婚式の記録です。ニューヨークでは当時、ホテルに暮らすというのも珍しくはなかったのです。」

結婚後、二人はニューヨークでホテル暮らしを始めました。若く美しく富をも得た二人はアメリカンドリームのシンボルとなり、彼らの言動は全米の注目の的となるのでした。特にゼルダはフラッパー(Flapper)と呼ばれる解放された女性像のシンボルとなっていきました。

 

≪おしゃれでイケてる女性の代名詞「フラッパー」の文化≫

ゼルダが牽引したフラッパー文化は、ライフスタイルにおける史上初の女性たちの革命であったといわれています。

今までコルセットで締め付けられたロングドレスの衣装から、バストやウエストを強調しないゆったりとした膝丈のストレートシルエットにボブカットヘアへと様変わりし、家の外での仕事やスポーツをするようになりました。

当時のファッションについて専門家、パーソンズ・ザ・ニュースクール・フォー・デザインのファッションリサーチ長を務めるヘイゼル・クラーク博士「この服は女性の生き方が劇的に変わったということの良い証拠なのです。服装の革命という意味だけでなく、市民権を得始めたことの象徴ともいえるでしょう。 1919年には長いドレスを着ていたものがたった5、6年後には膝丈の長さになるのですから。袖もノースリーブになって露出が増えました。これはとても驚くきことなのです。」

この頃は文化自体も自由になり、女性もタバコやお酒をやったり好きな服を着てチャールストンのダンスを踊ったりもしました。ゼルダもスポーツとお酒を愛したそうです。

ヘイゼル・クラーク博士「ゼルダは自分の人生を楽しみ、フィッツジェラルドは妻のゼルダをモデルにフラッパーについてたくさんの本を書きました。そしてゼルダはフラッパーたちのお手本となったのです。彼女は本当に人生を謳歌した人だと思うんです。」

アメリカ経済の絶頂期は、彼らにとっても光り輝く人生の春でありました。

フラッパーたちの特徴はメイクにも現れました。それまで女優や娼婦のものであったお化粧が、この時代には多くの女性のものとなりました。

そしてフラッパーに大流行した画期的な化粧品も生まれました。それは1913年にアメリカの薬剤師が恋に悩む妹のために開発したもので、これを使えば可愛らしさ倍増という化粧品でした。

 

【クイズ1】
フラッパーに大流行した画期的な化粧品とは?
→マスカラ

恋に悩む妹メイベルのために兄が作った化粧品の原料は、ワセリンゼリーと炭の粉でした。よく混ぜて睫毛に塗ります。マスカラのおかげでメイベルは恋を成就させることができたそうです。

その後、マスカラは商品化されて妹の名前であるメイベルと原料のワセリンを合わせた造語でメイベリン(MAYBELLINE)という会社が誕生し、GreatLashを発売しました。

 

 

映画「華麗なるギャツビー」に登場する煌びやかなアクセサリーに関して協力したのがティファニーでした。映画に登場するジュエリーはティファニー製なのです。

セントラルパークに程近いニューヨーク五番街には、ティファニーが本店を構えています。

店頭のショーウィンドウには、映画のためのコレクション「The Great Gatsby Collection」が並べられていました。

本店の1階にはティファニー社の宝物が展示されています。

ティファニー広報のリンダ・バックリーさん「こちらは世界最大級のイエローダイヤモンドです。世界で最も貴重なダイヤモンドの一つです。128.5カラットです。」

白い光のような輝きを放つネックレスを見ているとまるで吸い込まれていきそうなほどで、そのダイヤモンドの上品で清楚なイエローのまばゆい煌めきは、まさに世界的な至宝です。

特別に本店の7階にあるティファニーの工房へ

宝飾職人さん「今、私が行っているのは仕上げの作業です。この3カラットのイエローダイヤモンドを18金のバスケットに入れてリングと結合させます。」

この工房で製作されているジュエリーは特注品のみで、その顧客には著名人が名を連ねているそうです。

1920年代は特にジュエリーが多様化し、より一般的になりました。映画「華麗なるギャツビー」にもたくさんのジュエリーが登場します。

映画のために作られた「The Great Gatsby Collection」

リンダ・バックリーさん「ヒロインのデイジーが着けていた装飾品です。特別に『華麗なるギャツビー』とコラボレーションしたものです。」

1920年代はモノトーンのジュエリーが流行しました。植物をモチーフにしたデザインも当時の資料を基にして製作されています。

リンダ・バックリーさん「フィッツジェラルドとティファニーも関係が深いのです。20年代の黄金期、彼が盛大なパーティーを開くと、女性たちはそこへティファニーを身に付けていったそうです。そしてまたフィッツジェラルド自身もティファニーの顧客でした。」

 

≪究極の浪費家 そのバブリーな生活ぶりとは≫

フィッツジェラルドは2、3日に1本の短編作品を書けば、当時のサラリーマンの年収ほどを得ることができました。しかしそれをド派手なパーティーに費やし、 2、3日で使い切ってしまったと言われています。その豪快さはまさにギャツビーさながらでした。それもこれもすべては目立つためだったのです。

1920年に雑誌イブニング・ポストで夫妻の話題が初めて取り上げられました。

フィッツジェラルド夫妻のお金はとにかく世間を騒がせるために使われました。

ある時はタクシーの屋根に乗ってパーティに向かい人々を驚かせたり、ある時は煙草を吸うために5ドル札に火を着けたり(違法)、ある時は際限なく大酒を飲んで乱痴気騒ぎをしホテルを追い出されたりしました。

フィッツジェラルドがこのような暮らしをしたのには理由がありました。彼は自分の体験を基にして作品を書くタイプの作家でした。書き続けるためには破滅的な浪費を重ねて日々の生活をフィクションのように仕立てる必要がありました。

1921年、二人の間には娘フランセス・フィッツジェラルドが生まれましたが、相変わらずこの奔放な生活は続きました。しかし、フィッツジェラルドには「ただの流行作家では終わりたくない」という思いが芽生えていました。

 


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≪小説家としての夢≫

フィッツジェラルドは家族を連れてニューヨーク州ロングアイランドに移り住みました。マンハッタンから電車で30分程度のグレートネック(Great Neck)に腰を据え、文壇に名が残るような長編小説を書こうとしました。ギャツビーの邸宅がある場所もグレートネックの街がモデルだといわれています。

ロングアイランドは当時から高級住宅街でした。

郊外ではニューヨークシティ向けの近郊農業が盛んな地域です。

果樹園を営む農家「桃の畑なんだ。ここは水があって冬も温暖だから果樹栽培に向いているんだ。」

長女テッサさん「夏にうちで作ったジャムやパイを売ったら学校の友達も買いに来てくれるのよ」

穏やかで静かなロングアイランド、その高級住宅地にはフィッツジェラルド一家がかつて暮らした家が残っています。

彼は後の代表作「The Great Gatsby」の執筆に取りかかるはずだったのですが、結局二人はここでもパーティー漬けの日々を送ってしまいます。ゼルダにはこの穏やかな暮らしが耐えられなかったようです。フィッツジェラルドに小説という表現手段があったように、ゼルダにとっては奔放に生きることそのものが表現手段だったのです。

「女の子で嬉しいわ、美しく馬鹿な女に育ってくれればいいけれど」フィッツジェラルド著、村上春樹訳「グレート・ギャツビー」(中央公論新社刊)の中にはこんな言葉が出てきますが、これはゼルダが娘を産んだ直後に実際に口にした言葉なのだそうです。

その後、フィッツジェラルドは更に静かな場所を求めて家族でフランスへ渡り、遂に「The Great Gatsby」を書き上げました。

しかし、ゼルダとの関係には暗雲が立ち込めていました。

 

≪ギャツビーがその富を見せつけるように邸宅の前の海で行わせたパフォーマンスについて≫

そのパフォーマンスは1922年に初めてアメリカで行われたそうです。新しもの好きのフィッツジェラルドは、いち早く「The Great Gatsby」の中にそれを描いています。

 

【クイズ2】
1922年に初めて行われた水上のパフォーマンスとは?
→水上スキー

「The Great Gatsby」に登場する当時最新のパフォーマンスが水上スキーで、1922年にミネソタ州の湖で行われたのが初でした。1924年に執筆していた作品に描いているということからも、フィッツジェラルドが如何に流行に敏感だったかが窺えます。

 

 

≪初版本を求めて≫

苦心の末にやっと書き上げた「The Great Gatsby」にフィッツジェラルドは手応えを感じていました。

マンハッタンの古書店バウマン・レア・ブックスの販売員エリン・ブラックさん「こちらは初版本です。1925年に出版されたものです。もうカバーが付いていないのですが、カバーのあるものは非常に稀少です。初版本であることの証明はわずかな誤植です。『sick in tired』となっていますがこれは間違いで正しくは『sick and tired』なのです。第2版以降は修正されています。」

こちらの本は5800ドルで、もしカバーがあれば15万ドルだそうです。

エリン・ブラックさん「けれど、この初版本はさほど売れませんでした。彼はとてもがっかりしたでしょうね。 」

 

≪アメリカの輝かしい栄光と挫折への転落≫

レオナルド・ディカプリオさん「僕は15歳のハイスクールの頃にこの小説を読んだ。その時はなぜこの作品がこれほど賞賛されるのか、理解できなかった。でも37歳になってもう一度読んだときに印象が違ったんだ。大人になってから読んで、やっとフィッツジェラルドが『The Great Gatsby』の中に書いた複雑なものに気づいたんだ。 」

この小説には、若き日に叶わなかった恋への幻想と、中年に差しかかろうとする男の悲哀が漂います。さらに現実世界では絶頂期だったアメリカにありながらもその崩壊を予感させていますが、当時のフィッツジェラルドの作品の読者ファンの年齢層は若者が多かったといわれ、作品の根底に渦巻く悲哀も予感も、なかなか十分には理解されなかったのかも知れません。

「パーティーは1000、仕事はゼロだ」

その頃、フィッツジェラルドの日記にはこんなことが度々書かれていたといいます。彼にはもうお金がありませんでした。それでもゼルダはパーティーを止めることができませんでした。またそのパーティーは以前のような華やかで明るい雰囲気のものではなく、現実から目を背けるかのように破滅的なものになっていったそうです。

ゼルダの伝記を書いた伝記作家のナンシー・ミルフォードさん「私が思うに、彼女は何度かパーティーを止めようとしたんだと思います。彼女は若くて美しい時期にはパーティーでチヤホヤされましたが、その時期が終わると、精神を病み始めました。そして、歳をとるにつれてパーティーは彼女の救いではなくなりました。彼女の容態はどんどん悪くなっていきました。生きることが困難になってきたのです。 」

フィッツジェラルドはゼルダの治療費と寄宿舎に入れた娘の学費を稼ぐために、当時勃興中のハリウッドで脚本の仕事をし始めますが、世間からも冷遇され、友人もいないハリウッドで彼は孤独でした。寂しさを紛らわそうと自分宛の手紙を書いて投函したのだそうです。

「親愛なるスコット 元気かい?ずっと君に会いたかった 僕は今、アラーの園というところに住んでいる Scott Fitzgerald」

ナンシー・ミルフォードさん「フィッツジェラルドとゼルダの関係は決して良くはありませんでした。しかし、そこには愛があったのでしょう。 2人はある意味でお互いを支え合っていましたから、『The Great Gatsby』は彼が出会った華々しく煌めいた人たちを通して描いた物語です、警告を込めたね。だからみんなこの物語が好きなのです。 」

その警告が予見した未来は、やがて現実のものとなりました。

1929年、ウォール街のニューヨーク証券取引所では株価の大暴落が起こり、それを引き金に世界恐慌が巻き起こりました。これを境にアメリカは暗い時代へと呑み込まれていきます。

1931年に完成したエンパイアステートビルでしたが大恐慌の影響でテナントが入らず、empty State Building(空っぽのビル)と揶揄されたこともあったのだそうです。

1931年にニューヨークへ戻ったフィッツジェラルドは、あの華やかなジャズエイジがすっかり終わってしまったことを知ります。女性たちの身に着けるスカートの丈は再び長くそして暗い色に戻り、パーティーが開かれることもありません。

彼は、初めてエンパイアステートビルに登った時のことをエッセイにこう記していました。「うぬぼれに凝り固まったニューヨーカーなら一度ここに上ってみればいい。ニューヨークはどこまでも果てしなく続くビルの谷間ではなかったのだ。そこには限りがあった。ニューヨークは結局のところただの街でしかなかった。宇宙なんかじゃないんだ。そんな思いが人を愕然とさせる。彼が想像の世界に営々と築き上げてきた光り輝く宮殿は、もろくも地上に崩れ落ちる。」(フィッツジェラルド著、村上春樹訳「マイ・ロスト・シティー」(中央公論新社刊))

そして1939年、世界は第二次世界大戦へと突入していくことになるのでした。

そんな時代を見たくないとでも言うかのように、フィッツジェラルドは1940年に心臓麻痺に倒れ、世間に忘れ去られたまま44歳で永眠したのでした。彼の作品の文学性はアメリカが明るさを取り戻す1950年代になって再び評価され、今ではアメリカ文学最高峰の名を欲しいままにしています。

もう一度ゼルダへ(once again to ZELDA)

 

ロバート・キャンベルさん「祖母の姉がロングアイランドの富豪の屋敷でお手伝いさんをしていた。戦前の話ですけども。ギャツビーのきらびやかな、でもどこか虚ろな世界を小さい時から聞かされていました。読んでいると自分自身がわかるような気がする、そういう風景をもった作品だと思います。」

 

フィッツジェラルドは日記帳ではなくあるものを使って日記を書いていたそうです。

 

【クイズ3】
フィッツジェラルドが日記を書くために使ったものは?
→帳簿

18歳の時にはすでに帳簿に日記を書いていたそうです。出版もされていて、中には几帳面な文字がびっしりと並び、彼が書いた短編小説など作品のリスト、そして生活にまつわるあらゆる収支の記録と日記が書かれています。

「新しい小説の原稿料前借り(The Great Gatsby)」などの記述から、「The Great Gatsby」については出版の2年前から前借りが繰り返されていたことがわかります。

「私の人生設計図」とも書かれており、彼にとってお金は人生を映す鏡であり、生涯をお金に振り回されながらも帳簿に日記を付けていたというのはなんと皮肉なことでしょう。

 

 

見事パーフェクト賞の黒柳徹子さんには、映画「華麗なるギャツビー」にも登場した「モエ・エ・シャンドン マグナムボトル 番組ロゴ入りスペシャルバージョンと『華麗なるギャツビー』バッグハンガー付き記念セット」が贈られました。

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コメント

    • k-co
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