バリ島の棚田(インドネシア)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Indonesia

邦人7人が行方不明 バリ島沖でダイビング中、強い潮流に流され

2014/2/15、インドネシア・バリ島デンパサールの日本総領事館によると、2/14からバリ島沖合の島でスキューバダイビングをしていた日本人女性7人と連絡が取れなくなった。水上警察や遭難救助隊などが船やヘリコプターを使って15日も捜索を続けているという。7人は20代から50代の日本人女性。14日朝からバリ島南部のサヌールを出発し、レンボンガン島に向かった。7人のうち2人がバリ島在住のインストラクター、5人が日本から来た旅行客。5人はグループでダイビング会社にツアーを申し込んでいたという。連絡が取れなくなったのは午後1時頃から3回目のダイビングをしている途中だった。現地14日の天候は曇りで、短時間の激しい雨も降った。同日にレンボンガン島を訪れたという日本人観光客によると「雷雨や波のうねりがひどく、海には入れなかった」という。周辺海域は潮流が強く、潮の流れに乗って移動する「ドリフトダイビング」で有名。ある程度経験を積まないと予想以上に流されることがあり、行方不明になった7人も強い潮流に巻き込まれた可能性がある。彼らが行方不明になった現場付近は毎年のように事故がある海域でもある。バリ島の南東沖にあるレンボンガン島周辺では2012年8月にダイビング中だった東京都在住の日本人女性(34)が流され、死亡する事故が起きた。流れが強い時には潜らないよう指導することもあるという。

レンボンガン島周辺はマンボウ、ウミガメ、エイなどがみられ、7人が消息を絶ったダイビングスポットの「ブルーコーナー」は島の北部約1kmの場所にある。日本人ダイバーにも人気が高いポイントとして知られている。ただ、やや潮流が速く、潮に流されながら潜水する「ドリフトダイビング」の技術が必要だという。地元ダイバーにとっても、潮の流れが速いだけでなく短時間で複雑に変化するため最上級者向けのスポットとして認識されているようだ。事故のあった現場で行われていたと考えられる「ドリフトダイビング」とは一体どのようなものなのか。ドリフトダイビングとは、ダイバーが潮に流されながらボートを離れて潜水、長い場合には1km以上漂流した後、再びボートに拾ってもらう。しかし、インストラクターとボートの船長の連携がうまくいかないと見失うことがあり、船長の視力も重要になる。潜水開始地点と浮上地点が大きく異なるため、ダイバーは海面に出ると、長さ1mほどの蛍光色の浮きを浮かべて合図するが、視界が悪いと船長がダイバーを見つけられないこともあるという。現地では同様の事故はしばしば起きているようだ。14日は満月が迫っていた。地元ダイバーの間では「満月の日はマンボウを見られる確率が高くなる」といわれているそうです。その一方で、満月は潮の満ち引きが一段と大きく、複雑になる日でもある。珍しい魚を見る確率は高まるが、その分、危険度も増大する。

日本総領事館・バリ州運輸当局などによると、7人は14日、インドネシア人男性が船長を務める約10人乗りのモーターボートで、バリ島・サヌールから20~30km離れた現場に向かった。現場はサンゴ礁が広がる人気のダイビングスポットだが、潮流が速く、上級者向けであるという。2月に入ってから周辺海域は荒れがちだったという。7人はこの海域で午前中に2回、ダイビングを行った。3回目を午後1時ごろから開始。長くても1時間程度の予定だったが、予定されていた地点に上がってこなかった。この時刻にスコールがあったという。予定時刻を過ぎても浮上せず、周辺を捜しても見つからなかったため、船で待っていた船長が同日夕方、イエロースクーバを通じて地元の水上警察などに通報したという。地元警察によると、14日は午前と午後の2回にわたって雨が降っていた。同日午後1時ごろは、スコールに加えて強い風が吹いていたという。

14日は夕方から現地警察が捜索を始めたものの、行方は分からないまま日没で一旦捜索打ち切りとなり、15日午前6時から再開されている。行方不明者のうち2人はバリ島在住のインストラクターで、地元のダイビングショップ「イエロー・スクーバ」の2人とみられる。他の5人の出身地はそれぞれ異なり、イエロースクーバにインターネットで申し込んできた観光客だ。7人は14日午前に2回潜り、午後1時ごろから3回目のダイビングを始めた。予定時刻を過ぎても戻らないため、関係者が警察に連絡したという。15日は水上警察や空軍の航空機が捜索にあたっているという。

現場はバリ島の東にあるレンボンガン島の近くだ。総領事館は7人の身元を明らかにしていない。地元警察によると、行方不明になっているのは、ミヤタ・リツコさん、ヤマモト・エミさんら7人。15日、女性1人の遺体が発見されたとの情報があり、確認を進めていると地元警察が明らかにした。日本総領事館は確認していない。

15日朝からは軍や地元住民も加わり、警察当局は船やヘリコプターを使って80人態勢で捜索を続けたが、手掛かりは得られず、日没に伴い午後6時(日本時間同7時)に中断した。16日早朝に捜索を再開する予定。現地警察によれば、不明になっているのは、ミヤタ・リツコさん、ヤマモト・エミさん、トミタ・ナホミさん、モリゾノ・アヤさん、ヨシノベ・アツミさん、タカハシ・ショウコさん、フルカワ・サオリさんの7人だ。ダイビング会社「イエロー・スクーバ」のホームページなどから、インストラクターの2人は高橋祥子さんと古川さおりさんとみられている。

日本総領事館によると、客の5人ともダイビング経験は豊富という。インストラクターの2人についても周囲からベテランダイバーと称される経験を持っていたようだ。

16日朝から捜索が再開された。現場は潮の流れが速い海域もあり、捜索は難航している。地元救難当局によると、捜索にはヘリコプター1機と救難艇7隻などが出動。ダイビングの日本人インストラクター仲間や地元漁師ら計80人が参加。地元警察などによると、前日より捜索範囲を広げ、7人が流されたとみられる、レンボンガン島の東、ペニダ島北の海域を中心に捜索するという。日本総領事館などによると、行方がわからなくなっているのは、高橋祥子さん、古川さおりさん、ミヤタ・リツコさん、ヤマモト・エミさん、トミタ・ナホミさん、モリゾノ・アヤさん、ヨシドメ・アツミさん。現地当局15日発表時点でヨシノベとされた名字がヨシドメと改められている以外は、不明者氏名の情報は一致している状況だ。

16日、インドネシア救難当局は、船舶10隻やヘリコプターで早朝から夕方5時まで3日目の捜索を続けたが、安否につながる手掛かりは見つからなかった。水上警察、空軍、地元のダイバーらも捜索に参加した。不明7人の一部の家族は17日にもバリ島入りする予定。16日に記者会見した救難当局(国家捜索救助庁)の責任者ディディ・ハムザル氏によると、16日までの3日間で、空と海から約370平方kmを捜索したと説明。7人がこの海域の外に漂流している見込みは少ないとした。

16日、7人が乗っていたボートのインドネシア人船長が「(遭難当日は)ダイビング中に激しい降雨があり、海中のダイバーを見失った」などと詳しい事故状況を明らかに。地元警察は、船長やダイビング会社オーナーから事故状況について事情聴取しており、捜査幹部によると、船長は警察にも同様の説明をしているという。船長は周辺をしばらく捜索したが、燃料が少なくなったため、いったんレンボンガン島に寄って給油。その後、捜索を再開したが、発見できなかったという。船長はダイバーの潜水開始から約3時間が経過した14日午後4時ごろ、「イエロースクーバ」に「船のガソリンが無くなるまで7人を捜したが見つからない」と連絡した。結果的に捜索救助庁が行方不明の連絡を受けたのは午後7時だったという。

警察や関係者によれば、不明となっているのは、宮田律子さん(59)本籍大阪府、森園彩さん(27)同佐賀県、山本栄美さん(33)同三重県、吉留温美さん(29)同和歌山県、トミタ=漢字表記不明=奈穂美さん(28)同兵庫県、それにインストラクターの高橋祥子さん(35)、古川さおりさん(37)だ。高橋さんは「イエロー・スクーバ」の共同経営者も務めている。観光客の5人はともにダイビング経験50回以上、中には1000回を超すベテランもいるという。→トミタさんは冨田奈穂美さん。観光客の5人は13日からバリ島のクタ地区にあるホテルに宿泊。14日午前7時半ごろにサヌールヘ向けてホテルを出発、船で沖合へ出たという。

17日は早朝から現場付近の浜辺に日本人とインドネシア人のダイバー約30人が集まり、小型船8隻とヘリコプター1機をチャーターしての捜索が行われた。費用はダイバーたちの持ち寄りと、在住日本人らからの寄付で賄っているという。また17日に日本政府関係者が明らかにしたところによると、ダイビングインストラクターの高橋祥子さんの両親が空路でバリ島デンパサールに到着。救難当局などによると、周辺海域は潮流が強く、捜索は依然として難航している。ヘリや船を使った大がかりな捜索は18日まで続けられる予定。

17日、日本時間18:30、バリ島の水上警察より日本人4人発見の情報あり。生死は不明。日本総領事館によると、レンボンガン島の東にあるペニダ島近くのマンタ・ポイントという海域付近で見つかった模様。領事館も確認を急いでいる。レンボンガン島の地元警察関係者によると、漂流していた4人を釣り人が発見し、捜索活動をしていた船に伝えたという。発見された際の詳しい状況は不明。バリ島のサヌールの港では救急車が待機。5人発見との情報も。→1人生存を確認。他の4人も生きている可能性あり。5人は生存か?最初に5人が発見された現場は、行方不明になった地点から約20km南東。岩につかまっていたという。(午後4時前(日本時間同午後5時前)まず、最初に発見されたのが古川さおりさん。消息を絶ったレンボンガン島北側の海域から南東に約30km離れたペニダ島の岸壁で地元ダイバーに発見された。その後、さらに約800m北西の岸壁で、日本から訪れた冨田奈穂美さん、森園彩さん、山本栄美さん、吉留温美さんの4人が崖にしがみついた状態で見つかった(救難当局のヘリコプターが、岩場の上で、黒いウエットスーツ姿の4人が、肩を抱き合うようにして救助を求めているのを発見)。もともと古川さんと4人は一緒に救助を待っていたが16日に近くを通りかかった船を呼びに行くために古川さんが岩場を離れたのだという。)→別の場所で残りの2人(観光客の宮田律子さん、ダイビングショップのインストラクター高橋祥子さん)も見つかったという連絡がインドネシアの海難救助隊に入った。同隊によると、7人は全員無事だという。

→地元救難当局者の17日の記者会見では、7人のうち5人をバリ島沖のペニダ島南岸で発見、救出したと述べた。5人はすり傷を負っているが、容体は深刻ではないという。(発見後、古川さんはヘリで、他の4人はボートで、ペニダ島からバリ島サヌール地区の港まで搬送され、デンパサル市内の病院に収容された。病院関係者によると、一部に衰弱や脱水症状などもみられるが意識はあり、容体は安定しているという。)残る2人は依然不明。18日以降、捜索を続けるという。救助された5人の身元は先の情報と一致するので、見つかっていない2人というのは観光客の宮田律子さん、ダイビングショップのインストラクター高橋祥子さんということになる。先に報じられた「7人全員無事」という情報は間違いだったのだろうか。→「7人全員無事」という読売新聞のニュースについては誤報

→18日未明、インドネシアの海軍は前日に5人が救出されたペニダ島付近で残る2人の捜索を再開。4人が入院したバリ島内の病院の医師らは18日朝、記者会見「4人の容体は安定している。早ければ明日か明後日に退院できるだろう」長時間屋外にいたために、顔や手足に軽度のやけどを負っているが、早ければ1日ほどで回復するという。別の場所で発見されたインストラクター古川さおりさんは17日夜、入院先のバリ島内の別の病院で手書きのコメントを発表「大変ご心配おかけしました。私自身の体は問題ありません。4名の方がみつかったとうかがい、残り2名の生存を願いつつしばらく休養させて頂きたいと存じます」捜索関係者によると7人は行方不明になった14日夜は海で漂流していたが、今回見つかった5人は15日夜の時点でペニダ島にたどり着いていたという。

18日、救助された5人のうち、バリ在住のインストラクター古川さんが文書で行方不明になってから救助されるまでの状況を証言。古川さんによると、7人は天候の悪化によりボートとはぐれ、行方不明になってからも、翌15日午前中までは、全員が手を取り合って海上で救助を待ち、流れてきたココナツを飲むなどして乾きをしのいだという。しかし、古川さんは、近くを通った船に救助を求めようと向かった後、他の6人とはぐれてしまい、その後、ペニダ島に半ば波に打ち上げられるように上陸したという。「今は全員が一刻も早く見つかることを祈っています」と文書を結んでいます。

古川さんが報道陣の取材に対して書面を通じて回答。14日昼すぎに行方が分からなくなったときの状況について、「天候が一変し、強風による荒波と豪雨で視界が悪くなったうえ、水面が洗濯機の水流のように回り出した」しかし、7人全員は、はぐれることなく手を取り合って、励まし合いながら海上を漂流していた。翌15日の午前中、古川さんは、近くを通りかかったボートに助けを求めようと、1人でボートに近づこうとしましたが、潮の流れもあって、追いつくことができなかった。このため、また6人のもとに戻ろうとしましたが、再び潮の流れに邪魔されて戻ることができず、6人とは離れてレンボンガン島の東側にあるペニダ島南部の岸壁に打ち寄せられたという。古川さんは、そこで雨水や枯れ葉の水滴をすするなどして水分を補給したほか、岩陰で雨をしのぎ、体温が下がらないようにしていたという。17日、仲間のダイバーたちに発見され、ヘリコプターで引き上げられた後、このヘリコプターから他に救助された4人の無事を確認したという。残る2人の捜索が続けられていることについて、「心配で心配で昨夜も寝つけなかった。全員が一刻も早く見つかることを祈っている」

古川さんによる証言【1】
18日、古川さんは遭難した約75時間の様子を書面で記者団に明かした。書面でのインタビューは現地の日本総領事館を介して行われた。まず7人がダイビングを行っていた14日午後の状況について「メンバー全員の体調、天候と海の状況ともに問題はなかった。波はほぼなく、流れも平均的。天気も穏やかだった」だが、潜水を終えて皆で海面に浮上すると、「天候が一変。強風で波がたち、豪雨で視界が悪くなっていた」。ただ、船のエンジン音が聞こえたのでホイッスルで合図したという。船を見失った後、潮流が一変。「水面が洗濯機の水流のように回り出し、メンバー全員固まって手やタンクなどを取り合った状態でグルグル回り出した」。その回転から抜け出した後は、潮に流されながらも、遠くに見える島の地形や飛行機の経路、コンパスなどを使って現在地を把握していたという。体力温存を優先し、翌朝まで皆がはぐれないよう手を取り合ったり、互いをひもで結んだり工夫。流れてきたココナツの実を割って飲んで、のどの渇きを潤した。「パニックになることもなく皆さんしっかりしていた」という。翌15日午前、ペニダ島付近を漂流中、タグボートを見つけて古川さんだけが救助を求めるため泳いで近づいたが気づかれず、潮流の影響で他のメンバーともはぐれてしまった。古川さんは書面で「その際には全員がその場所にいたはず」と他の6人が一緒だったとしている。1人になった古川さんは同日夕、ペニダ島の岩場に泳いで上陸に成功。「何とか人が住むところへ行って皆の救援を頼みたかったが、目の前は大波と潮流の激しい海、後ろは断崖絶壁で、体力的にも身動きがとれなくなってしまった」そのため、雨水をためたり、枯れ葉の水滴をすすったりして渇きをしのいだ。発泡スチロールのゴミを体に巻いたり、岩かげで雨宿りしたりして体温の低下を防いだという。17日、「動けず体を横にしていた際、いつもお世話になっている他社のダイブショップやボート会社のメンバーがこちらを見つけ、皆で叫んで呼んでくれたので、意識がはっきり戻った」。その後、駆けつけた救助ヘリに乗り込んだ。救助後の心境について、古川さんは、「皆様のお心、多大なるご協力に、言葉ではすべて言いあらわせられないほど深く感謝しております」と記した。また、18日時点でまだ2人が行方不明になっていたことについて「心配で昨夜も寝付けなかった。自ら直接探しに動くことができない現状がとても悔しい。一刻も早く見つかることを祈っている」と述べた。

問1 事故当日の3本目のダイビング入水時の状況。天候、メンバーの体調に問題はなかったのか?
回答 ダイビング開始時(14日昼過ぎ)、メンバー全員の体調、天候と海況(かいきょう)ともに問題ありませんでした。波はほぼなく、流れもサケナンポイント(※注:ダイビング地点の名称)としては平均的な穏やかな流れのドリフトダイブ。天気も穏やかでした。
問2 遭難時の経緯。ダイバー側が船との合流地点を見失ったのか? 船が合流地点に来なかったのか? 前者であれば理由は? 潮に流されたのか? 悪天候が原因か?
回答 メンバー全員で安全停止を浅瀬で行い、サケナンポイント内で水面に通常浮上。安全停止中にダイブフロート(ボートがダイバーをピックアップするためのサイン)もあげてありました。その時には空の天候が一変した直後だったようで、強風で波がたち、豪雨で視界が悪くなっていました。ボートのエンジン音も聞こえたのでホイッスルも鳴らしました。とにかく急な雨と風で一時的に視界がかなりきかなくなったことを覚えていますが方向は把握していました。
問3 ボートを見失って漂流開始後の過ごし方を教えてください。どんな会話があったのか? 流されている方向はわかったか? 体力を温存するために取った措置は? 捜索の船などを見かけることはあったか?
回答 しばらくして浅瀬側に避難しようと試みましたが、潮流も一変していたのでウエートもすぐに捨てました。直後に水面が洗濯機の水流のように回り出し、メンバー全員固まって手やタンクとBCD(浮力調整器のチョッキみたいなもの)を取り合った状態でグルグル回り出しましたが、その回転から抜け、雨で悪かった視界が少し回復したときには方向と現在地も把握していました。流されながらも昼はバリとレンボンガンの地形、暗くなってからは飛行機の経路や島のライトとコンパスで現在地はおおよそ分かっていました。島に近いときは泳ごうかと試みましたが、島周辺は潮流が入り組んでいるので、難しく、途中から体力温存で皆で固まって動くのをやめたり、少しまた島側への潮流が出たら無理のない程度に泳いだりもしました。パニックする人もなく、皆さん、とてもしっかりなさっていました。特にメンバーの中にいたイントラ(※注:インストラクター)のゲストには多大なるご協力を頂き、誠に感謝しております。夜間に遠くで大きな船がいたときはゲスト陣全員がライトで救援シグナル
を送ってくれました。また意識が飛びそうになったときも、周りのメンバーが励まして起こしあったり、ココナツが流れてきたのを飲んだりしながら、翌朝まで一緒に手を取り合ったり、BCDをひもでくくりつけたりし、とにかくはぐれないように工夫していました。近くで捜索船と判別できる船とはあえませんでした。
問4 7人はいつ、どこで、どのような理由で別れたのか?
回答 15日午前にヌサペニダ(ペニダ島)南側を通ったタグボートが今までで一番近かったので、その際に救援を求めるために泳いで近づきたかったのですが、全員で行くには無理もあったので、その時点で私は代表でフィンキックの出来る限りのダッシュで近づいていきました。フロートは二つあったので、一つを持ち船の進行方向へ行きましたが、潮流もあり追いつかず。もう一つのフロートを持った高橋を含めた他のメンバー全員はその際にはまだ一緒に元の場所にいたはずです。皆の方へ戻ろうとしましたが、私がいた場所と皆がいた場所で潮流の向きが違ったためキックしてもキックしても戻れず、どんどん離れてしまいました。
問5 5人(4人)はいつ、どのように岩場に上がったのか?
回答 15日の夕方前、何時間も泳いでヌサペニダの絶壁の一部岩場になっているところへ近づいてからまずタンクを捨て、半ば岩礁の大波に助けられつつ足が届くところまで打ち寄せられました。BCDも大波にもまれている間に捨てました。大きな岩がゴロゴロする場所でフィンも脱ぐ際に波に持って行かれてしまいました。何とか人が住むところへ行って皆の救援を頼みたかったのですが、目の前は大波と潮流の激しい海、後ろは断崖絶壁で、体力的にも身動きがとれなくなってしまいました。
問6 古川さんが他のメンバーと別れたのはいつ、どこで、なぜか?
回答 15日の午前中、タグボートに救援を求めようとした際。理由は4で述べたとおりです。
問7 17日に発見されるまで、岩場でどのように過ごしたか? 飢えや渇きをどのようにしのいだか? 体力を温存するためにとった措置があれば。どんな会話を交わしていたか?
回答 夕方に雷雨があったので雨水をためたり、枯れ葉の水滴をすすったり、打ち寄せられたゴミのペットボトルの中にまだ飲めるものもあったので、そういったもので渇きはしのいでいました。またゴミで発泡スチロールもいくつかあったので、それらを巻いたり、岩かげで雨にぬれないようにしたりして保温していました。
問8 古川さんはいつ、どこで、誰にどのように救出されたのか? その時の心境は?
回答 ビーチで動けず体を横にしていた際、いつもお世話になっている他社ダイブショップやボート会社のメンバーがこちらを見つけ、ボートから皆で叫んで呼んでくれたので、意識がはっきり戻りました。すごい大波で、とても泳いで波越えをできる状況ではなかったのですが、最初に1人のローカルの仲間が勇敢にもフィンをつけて岸まで泳いできてくれました。すぐにSAR(※注:国家捜索救助庁)の方たちもライフジャケットをひもでつなぎこちらへ向かってくれました。ヘリから救援物資が投げられ、水とクッキーと口にしたものの、体力的にまだ大波越えができる状態にならず、しばらくしてヘリが何回も旋回しながら何とか場所を見つけ着陸してくれたので、それに乗りました。
問9 救出された後、知人などと再会した時の心境は?
回答 ヘリに乗るまでは必死だったので、あまり心境的なことは覚えていませんが、陸に戻って、病院でバリで昔から大変お世話になっている在住の皆さんの涙を見た時に初めて状況が見えました。皆様のお心、多大なるご協力に、言葉ではすべて言いあらわせられないほど深く感謝しております。
問10 残り2人の捜索活動が続いています。今の心境を教えてください。
回答 4人の方の無事をヘリから見ましたが、まだ2人が捜索中と伺いました。心配で心配で昨夜も寝付けませんでした。私自身が今できることはSARや捜索してくれている仲間を信じ、当時からの潮流の変化を知っている限り全て詳しく話すことくらいしかできず、自ら直接探しに動くことができない現状がとても悔しいです。全員が一刻も早く見つかることを祈っています。今は祈ることしかできませんが、祈ってます。

古川さんによる証言【2】
古川さんが救出直後の17日に病院で長時間にわたって面会した親しい友人に明かしたところによると、遭難した3日間の様子はまず14日のダイビング中、古川さんがダイバーたちの先頭を、同じくインストラクターの資格を持つ高橋さんが最後尾を泳いでいたという。海を漂流中、古川さんらが眠気に襲われると、ダビング歴の長い山本さんが「寝たらだめ」と励ましてくれたという。そのうちに、宮田さん、高橋さんがぐったりし始めた。高橋さんは、肩の付近に傷を負っていたという。その後、古川さんが打ち上げられた場所から少し離れた岩場で、山本さんら4人がよじ登るのが見えたが、声が届く距離ではなかったという。宮田さんと高橋さんの姿はなかった。岩場には、食べる物がなく、眼下には、魚が泳ぐのが見えた。空腹から「飛び込んで取ろうか」との思いもよぎった。見上げると、島の陸上にはパパイアの木が実をつけていたが、手が届く高さではなかった。渇くのどを潤すため、落ちていた葉に雨水をためて飲んだ。蚊にも刺されたが、助けが来ることを信じ、ひたすら待った。近くには寺院らしきものが見え、呼びかけて助けを求めたが、誰もいなかった。人影だと思ったのは、石像だった。その石像を見ていると「バリはやっぱり、神様がいる島なんだ」と心が落ち着き、生きる気力が湧いたという。17日午後にはダイバーの仲間たちに救助された。運び込まれた病室では、おかゆやナシゴレンなどを食べた。見舞いに来た人たちには「パパイアが欲しい」と頼んだ。古川さんは救助された4人の容体や捜索が続いていることを気にしており、「私も捜索の船に乗る」と話しているという。

→18日、日本時間19:35、バリ島沖で1人発見。当局によると邦人女性とみられ、遺体。

→インドネシアの救難当局が日本時間18日午後7時すぎにバリ島の南のセラガン島近くの沖合で女性1人の遺体が見つかったと発表。身につけていたウエットスーツや潜水器具などからダイビング中に行方不明になり、まだ見つかっていない日本人ダイバー2人のうちの1人とみられるという。遺体は、バリ島の病院に運ばれ、日本総領事館の職員の立ち会いのもとで検視が行われているという。救難当局は、7人がダイビング翌日午前中まで一緒に海上で救助を待っていたとの証言があることから、18日は5人が見つかった海域を中心に懸命の捜索を続けていました。捜索救助庁によると、午後6時10分(日本時間同7時10分)ごろ、デンパサル市セランガン島の入り江に遺体が浮いているのを、港の男性職員が発見し、同庁に通報したという。ウエットスーツを着用し、足にフィンを着けていた。BCD(浮力調整装置)という機材も身に着けていたという。発見現場は行方不明になったダイビングポイントから西方に約26kmの地点。

→身元確認のためバリ島の病院で検視が行われていた遺体について、行方が分からなくなっていたダイビング客の宮田律子さんであることが確認されました。発見された遺体は、宮田さんのイニシャルが刻まれた結婚指輪を身に着けていたという。死後3日から4日経過しているとみられるという。

救助された女性4人が入院している病院によると、4人はいずれも回復に向かっており、経過を見極めたうえで早ければ19日にも退院できる見通しだという。

19日、インドネシア海軍や捜索救助庁は態勢を縮小し、沿岸部を中心に捜索を続けている(捜索範囲について救難当局は17日に5人が救助されたペニダ島近くの岩場と、18日夜に1人の遺体が見つかったバリ島南の小島の沖合いが、30km余り離れていることから、18日よりも範囲を広げて捜索に当たった)。捜索は日没でいったん打ち切られ、20日夜明けから再開される予定。救助された女性5人のうち、インストラクターの古川さんは18日夜に無事退院。残る4人も順調に回復しているという。4人を代表して、入院中の山本さんが「私たちの救助に関わっていただいたすべての関係者、協力者の方々に心より感謝いたします。また、多大なるご心配をおかけしたことをおわび申し上げます。行方不明となっている高橋さんが一刻も早く見つかることを願っています。」と音声でメッセージを出した。また4人は文書で、救出されるまでの経緯を明らかにした。それによると、ダイビングは予定より早く終わったものの、海面に浮上した時点でかなり流されたことが分かったという。その後、バリ島に向かって30分ほど泳いだものの無理だと判断し、漂流からおよそ28時間後にペニダ島近くの岩場に打ちつけられるようにして上がることができたという。上陸後は「帰ってから何をしようか」などと話して励まし合いながら、水不足や夜の寒さに耐えたという。亡くなった宮田さんと、未だ行方不明の高橋さんとどのように離れ離れになったのか。4人が共同で報道各社の質問に書面で答えた「書面インタビュー」は直接取材に応じたくないとの4人の意向を考慮して、現地の日本総領事館を介して行われた。4人は遭難した14日午後1時ごろの3本目のダイブについて、海面浮上時に「スコールは降っていなかった。多少うねりはあったが入ったときと同じほど(だった)」と説明。ただ、潮にかなり流され、自分たちの船を確認できなかったという。15日午前、通りかかった船に助けを求めに泳いだ古川さんと離ればなれになり、残った6人が「島に向けて泳いだ」。彼らが救助されたペニダ島の岩場には「押し流されて打ち付けられた。3、4回大波にのまれた際、全員離ればなれになったが、偶然4人は岩場にあがることができた」とし、この時点で宮田さん、高橋さんと離ればなれになった模様。その後、4人は「生きて帰ろう、海で28時間がんばって泳いだから、もっとがんばれる、と励まし合った」。ダイビングの足ヒレに雨水をためて渇きを癒やし、夜はスコールの中、体温が下がらないよう4人で固まって過ごしたという。亡くなった宮田さんについては「何度か一緒にダイビング旅行をした仲。今回もみんなで計画を立て、楽しみにしていたのにこのような結果になって、やりきれない」と記した。

まずはじめに、私たちの救助に関わってくださった全ての関係者、協力者の方に感謝いたします。また多大なるご心配、ご迷惑をおかけしたことをおわび申し上げます。いただいた質問に対し、以下、回答いたします。
1. 事故当日の3本目のダイビング入水時の状況、天候はどうでしたか。
2. 遭難した時の様子はどうでしたか。
(回答)ダイビング自体は激流で、潜水時間は40分程度をめどに上がるはずであったが、流れが速く予定より早く水面に上がった。スコールがあったことについては海中から見えていた(暗くなっていた)。上がったときにはスコールは降っていなかった。波の状況は、高いわけではなく、入ったときと同じ状況(落ち着いており、凪(なぎ))。多少うねりはあったが入ったときと同じほど。水中で、こんなに流されていて大丈夫かと不安に思った。上がったときにかなり流されたということがわかった。流れてきた方向にいくつか船がとまっているのは見えた。自分たちが乗ってきた船については確認できなかった。
3. ボートを見失って漂流を開始した後はどのようにされましたか。その時の心境はどうでしたか。
(回答)インストラクターより、このままでは沖に流されるので、バリ島の方に泳ごうと提案があり、みんなで手を取り合って泳ぎ始めた。30分ほど泳いでから、インストラクターより、このままでは無理であり、ダイビングで入ってきた島の方に泳いだ方がよいとの提案があり、泳いだ。その後まもなく、日没になった。潮に流され、両島の間を行ったり来たりしている状況であった。
4. 古川さんと別れた後、6名で島の方向に泳いだとのことですが、宮田さんたち2名とはどのような状況で別れたのですか。
(回答)古川さんとは朝まで一緒であった。古川さんも衰弱しており、意識ももうろうとしていたので、これまでインストラクターに従っていたが、お昼10時くらいに船を見つけたということで、そのタイミングで呼んでくるということでそちらの方に泳いでいって別れた。その後、スコールが降り、視界不良となった。別れてから自分たちは島の方に泳いでいった。
5. 生存された4名はいつ頃、どのように岩場に上がったのですか。
(回答)島が近くなり、島の岸壁の方へ押し流されて岩場に打ち付けられた。3、4回大波にのまれた際、全員離ればなれになったが、偶然4人は岩場にあがることができ、そのまま上陸できた。
6. 17日に発見されるまで、岩場でどのように過ごしましたか?
7. 飢えや渇きをどのようにしのいだのですか。水はどのように確保しましたか。体力を温存するためにとった措置があれば教えてください。
(回答)岩の一番高いところにのぼってから持っていたライトを示して助けを求めて夜を過ごした。日中、日光も非常に強かったので陰に避難していた。衰弱もしていた。1日目は晴天で水を確保出来なかった。2日目は足ヒレに雨水をためて渇きを癒やした。ゴミであったペットボトルに雨水をためてそれを飲んでいた。夜もスコールが降り、温度がさがったので、4人固まっていた。
8. 救助を待つ間、どのような会話を交わしましたか、またその時の心境はどのようなものでしたか。
(回答)生きて帰ろう、海で28時間がんばって泳いだから、もっとがんばれる、と励まし合い、また帰ってから何をしようか、と話すなど励まし合っていた。スコールがないことによる水不足や夜の寒さが不安であった。怪我(けが)が膿(う)んできたのでそれが悪化しないか心配だった。
9. 救出された時の心境はどのようなものでしたか。
(回答)岩場で待避していたときに沖の方に2隻の有志によるダイバーの捜索船が見え、大きく手をふり助けを求めた。そのときは、助かったという思いがあったが、ここまで一緒に来たのにみんなで帰れないのだという思いもあった。
10. 残念ながら宮田さんが亡くなられました。他方、残り1名の捜索活動が続いています。今の心境を教えてください。
(回答)宮田さんとは何度か一緒にダイビング旅行をした仲であり、親交があった。今回の旅行もみんなで計画を立て、楽しみにしていたのにこのような結果になってしまい、やりきれない思いをしている。高橋さんも一刻も早く見つかってほしい。

病院側の説明では、4人の女性は順調に回復しており、20日にも退院できる見通し。19日午後には、入院中の女性たちに家族らが訪れ、およそ6時間にわたって病室で面会。

→20日午前、4人が退院。4人は病院を出る前に報道陣の前に現れました。4人を代表して山本さんは「私たちの救助に関わってくださったすべての皆さまに深く感謝を申し上げるとともに、多大なる心配とご迷惑をかけたことを心よりおわび申し上げます」と述べ、4人「ありがとうございました」と声を揃えて頭を下げました。そのうえで、「不明の方の一刻も早い発見を願っています」と述べ、今も行方の分からない高橋さんの安否を気遣った。顔や首に手当てのあとが残ってはいましたが、しっかりとした足取りで関係者が用意した車に乗り込んだ。今後、現地入りしていた家族らと共に、21日に日本に到着する便で帰国の途に就く。

残る高橋さんの行方については、未だに手掛かりは見つかっておらず、現地の救難当局は20日から捜索を再開し、発見に全力を挙げている。

インドネシア人船長の事情聴取、身柄拘束と逮捕
20日、地元の水上警察は7人を乗せていた小型船の船長アグスティヌス・ブラタ・クスマ氏(30)が、7人が海面に浮上した時に現場周辺を離れていた可能性があるとみて、事情聴取を始めた。

水上警察が19日、救出された日本人5人のうち2人から話を聞いたところ、7人は14日午後1時に潜水を始め、同1時31分に海面に上がった。その際、他の船がいくつか見えたが、乗ってきた小型船は見あたらなかったと説明したという。この証言に基づいて警察はこの時、船長が現場周辺から離れていた「不作為」があった可能性があるとしている。ただ警察幹部は「当時の状況を解明する必要がある」とし、事情を聴いたうえで立件できるかどうかを慎重に判断するという。

船長の証言は「ダイバーからの気泡を頼りに場所を確認していたが、天候が悪くなり見失った。待ち合わせ場所にいたが、上がってこなかった」と、遭難者たちと食い違っている点がある。

→20日、現地の警察は、ダイビングを終えて浮上した7人を見つけられなかった過失の疑いで、船長の身柄を拘束。今後の刑事訴追も視野に事情を聞いている。

→20日、救助されたダイビングインストラクター・古川さおりさんの事情聴取が開始された。当局者によると、古川さんの過失の有無も含め慎重に捜査するという。古川さんに関しては、ダイビング中にインストラクターとしての過失があった可能性を指摘。何らかの理由で小型船との合流地点にたどり着けていなかったと認められた場合、業務上過失に問われる可能性もある。

14日、3本目のダイビングは、潮に乗って約500m西に移動し、約45分後にボートと合流予定だったが、合流できずに漂流した。

船長の主張
ダイビング開始から約20分後、突然天気が悪化し、強風と豪雨で視界が約10mとなり、ダイバーが出す気泡を見失った。その後、合流予定時刻になってもダイバー7人が水面に浮上してこなかった。周辺を捜しながら約1時間待機。その後、燃料が不足し始めたため、レンボンガン島の港に入り、自分でお金を払って補給。

古川さんら生存者の主張
ポイント内で水面に通常浮上。ダイブフロートと呼ばれる目印の浮輪も上げた。ボートのエンジン音も聞こえたのでホイッスルも鳴らした。5人の生存者はいずれも「予定よりも短いおよそ30分で海面に浮上し、当時、天候はそんなに悪くなかった」と話す。

ボートに同乗していた船員グデ・スクダネさん(38)の証言
フロートは見ておらず、ホイッスルの音など聞こえなかった。船にはコンパス(方位磁石)が備え付けられていたが、14日午後に合流地点に移動する際には使用しておらず、全地球測位システム(GPS)は設置していなかった。無線設備もなく、通信手段は携帯電話のみだった。

いずれにしても水上に出た7人のダイバーたちとボートの位置が大きく離れていた可能性は高いとみられる。水上警察は21日にも会見を開き、捜査の状況などについて説明する予定。

20日も早朝から救難当局の船や海軍艦船、地元ダイバーのボートなど計10隻を動員した捜索が行われたが、発見には至らなかった。20日午後6時(日本時間同7時)の定例会見で、国家捜索・救難庁の現地責任者は、行方不明となっているバリ島在住のダイビングインストラクター・高橋祥子さんの捜索を終了すると正式に発表した。

→21日、地元の救難当局による大規模な捜索活動が20日で終了(21日以降は通常のパトロール業務の中で捜索を続けるとしている)したものの、現地の日本人ダイビング業者らは21日も朝から4~7隻のボートを出して、残る1人の捜索を懸命に続けている。ダイビング業者が集まっての大規模な捜索についても、このまま発見につながる手掛かりが見つからなければ、21日の日没をもって、捜索を打ち切ることにしており、捜索のために呼びかけていた募金の受け付けも終了となる。

→21日午前8時半過ぎ、無事に救助された4人(神戸大学医学部付属病院の看護師の冨田奈穂美さん(28)、森園彩さん(27)、吉留温美さん(29)の3人と、ダイビングショップ経営の山本栄美さん(33))とその家族らが関西空港に到着。山本さん「皆さんのおかげで、無事帰国できました。ありがとうございました」「漂流中のことは今は思い出したくない」「まだ見つかってない人もいてつらい。見つかることを願いながらゆっくりしたい」とコメント。今回の事故で亡くなった宮田律子さんの遺体は、21日午前、現地で荼毘に付され、家族は22日に日本に到着する便で帰国の途につくという。

→21日、バリの水上警察は、業務上の過失致死などの疑いが強まったとして船長を容疑者として逮捕。証拠である小型船も押収。安全を確保する注意義務を怠った刑法違反の疑いがあるという。同容疑者は、7人が海面に浮上した時、現場周辺を離れていた疑いが持たれている。

→ついに高橋さん発見につながる手掛かりは発見できず、現地時間の21日午後6時過ぎ、地元の日本人ダイビング関係者らも捜索を打ち切り、捜索のために呼びかけていた募金の受け付けも終了した。

22日、宮田律子さんの遺骨が家族らとともに関西空港に到着。遺体は21日、現地の斎場で火葬された。夫の稔さん「妻は今回、100回目の記念ダイビングを祝う予定だった」

→2014/03/16、インドネシア・バリ島デンパサールの日本総領事館によると、ジャワ島東部の沖合(東ジャワ州マラン沖・スンプ島西岸、行方不明となった地点から西へおよそ300kmの地点)でダイビングスーツを着た遺体が発見された。地元海上警察に確認した情報だという。地元メディアによると、15日の夕方、漁師が黒いウェットスーツを着た遺体を発見。損傷が激しく現時点では遺体の性別や国籍などは不明。遺体はマランの病院へ搬送され、在スラバヤ日本総領事館は今後、地元警察と協力の上、身元の確認にあたるという。

→2014/04/07、地元の警察当局は、発見された遺体のDNA鑑定を首都ジャカルタにある警察の研究所で行った結果、バリ島在住ダイビングインストラクター高橋祥子さん(35)であることを確認し、家族に結果を伝えた、と発表。

1 2 3 4

関連記事

コメント

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    以前、知り合いの稲作農家を 1年間通してお手伝いしていた時があったのですが、田植えからちょうど一か月くらい経った6月のこと。草取りのお手伝いに行こうと思ったら、向かっている途中に激しい雨が降ってきました。まだそれほど草が伸びていなかったので、結局その日の作業はお休みになったのですが、知り合いは一回、田んぼを見に行くということだったのでついていきました。すると、田んぼ自体の深さをチェックするのはもちろん用水路のあたりでも水の量をチェックしたりしていました。
    「結局、雨が“いい感じ”に降らないとおいしい米はできないからね。」
    今まであまり意識していなかった「恵みの雨」という言葉の意味を実感しました。
    これから雨が増える時期ですが、今年も「恵みの雨」が“いい感じ”に降ってくれることを祈っています!
    美味しいお米が育つためにも!

    • k-co
    • 投稿日 (Posted on):

    あなたはスクーバダイビングを知っていますか?
    (空気のボンベを背負って、浮力を調整する器具を身に付け、10m~30m程の深さの水中に30分~1時間程度潜るスポーツです)

  1. この記事へのトラックバックはありません。

*

人気記事ランキング-TOP50

Twitter

  • SEOブログパーツ
ページ上部へ戻る